空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

イシュタム・コード 仮説1~

仮説1  実験(実験動物)と仮定したとする。

補足

Aが実験動物 Bが観測者(研究者、観察者等)

 

仮説2 (作られた存在)

二次元(小説等の物語)の様に

作られた存在より、

観測者(物語の作者)を見る事は出来ない。

よって、自らは作られた存在であり、キャラクターの1人として存在する事となる。

 

つまり、二次創作物

 作られたストーリーの中踊らされている

(マリオネットの様に)

としたら、

 

“進化する必要性が無いのでは

ないだろうか?”

 

という疑問にぶち当たる。

イシュタム・コード より

人は架空の者

(存在しない社会という人格もしくは、

安定剤)が無ければ、生きられない。

“絶対者の概念”

 

『人が生きるために必要な三つの喜び』

マルクス

 

表現する喜び、

それを理解、評価してもらう喜び、

他者の表現を理解、評価できる喜び。

(価値を想像、理解してもらう、

相手をも理解できる。)

 

言語ゲームウィトゲンシュタイン

人は言葉によるゲームの中で生きていて、

言葉は思考ではなく、行為として存在する。

または、している。

 

言葉=人間の生活を成立させるためだけに

機能する。

神、善悪などの存在を証明出来ないもの

(目の前で存在証明できないもの)

を定義することは最初から出来ない。

 

言葉=現実(現状、事実等)を表現。

表現したもの(言葉、言語)を他者と共有。

 

たとえ、意味が違っても...(?)

 

言葉=見たもの、見えるものが事実と構成。

 

見えないものは概念として存在はするが、

言葉、言語として表されないため...

 

存在は意味を成さない?

21gの魂と同じ?

 

ただの言葉遊びと化する...(?)

 

だとしたら、

何故安定剤としての役割を与えられる?

-人が不安定な存在だから?-

 

仮説1 人は作られた存在。

自意識、無意識、これらの観測外に観測者がいる。

構成的に?絵柄的に?似ているものとして、

 

シュレディンガーの猫

観測者が中にいない。

(自ら)

 

ウィグナーの友人✕ 

観測者が中にいる。

(外にもいるが、結果は分からない。)

(他者)

 

(図?イメージ?)

Aの世界               l      Aの世界の外界

観測者A(自身)    l         観測者B(他者)

                              l

AはAの世界しか知らず、

外界は観測出来ないものとする。

(仮に生者)

 

BはB自身の世界とAの世界を観測できる。

(仮に死者)

とすれば、Bの世界は概念でしか無く、

21gの魂と、同じ...

 

Bにとっては本物。Aにとっては、概念。

 

イタチごっこだ。考えがまとまらない。

 

Bにとっては、ゲーム。そして、

Aはそのゲームの中の駒でしかない。

トーリーは毎度変わるため、

攻略法はなく、結果、

何が正解かも分からない。

 

全てが正解であり、可能性という名の概念。

データの一つ。

数ある答えの一つであり、

その過程は変われど、答えは同じ。

 

公式は間違っているのに、

答えが合ってる。

もしくは、近しい何かとなる。

 

答えが出ている。

それによる数ある公式を一つにまとめ、当てはめようとする。

公式は一つとは限らない。

 

言葉...

言葉選び を 言葉遊び

と読み間違えた事より、気づいた。

 

言葉選びも、遊びも本質は同じ事なのに

意味合いが違うというだけで別物に見えてくるもの。

 

選ぶ事も遊ぶ事も

言葉である事に違いはないんだ。

 

それは、人が善であるか悪であるか

問いかけるのと同じで

基準が曖昧なものを、他人の尺度一つで決めること自体がおかしいのだ。

 

だが、そうでなければ成り立つものも、

成り立たない時もある。

だから、

今書いているこれも、

言葉を選び、言葉で遊んでいるのだ。

疑問

それだから、それになる のか、

その過程でそうならざる負えなかった のか、

あるべくして、そうなった のか

 

蛙の子は蛙と言うように...

だが、

 怪物と闘う者は、

その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

おまえが長く深淵を覗くならば、

深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

(ニーチェ)

 

という言葉もある。

 

ただの言葉遊びだな。

愚問でしかないようだ

ヒエラルキー3

 

人が居るかどうかで他者より上かどうか。

そんな事を自慢し、その考えを他者に押し付けるのは傲慢以外の他にならない。

 

仮に、ヒエラルキーが上になるとして、

だからどうしたと言うとのだ?

誰かが居ないと自分の価値を優位、

もしくは上げられないのなら、

それまでの存在で、

それまでの価値しか与えられない。

 

無いに等しい価値を他者で補い、

共に生きるのがおかしいという訳ではない。

 

虎の威を借る狐になるのか、

自分の能力、実力で価値を上げれるのか、

という話だ。

 

ブランドは虎、自身は狐。

他者は虎、自身は狐。

 

ブランド、他者ともにファッション。

 

ブランドは身だしなみ。

(自身にそれだけの価値があるから?

地位にあるから?)

 

言葉を変えただけ。

傍目を見ればすべて同じ。

 

同じ事なのに、それに気づかない。

 

言葉

“人は言葉(もしくは言語)に頼りすぎている”

という言葉には同感するが、

同意とまではいかないかもしれない。

 

言葉で定義もしくは、それという存在を

確定している節があるからだ。

 

存在の証明として、名称として位置づけ、

もしくは区別。

 

だがその反面、

それが無ければ存在や、定義を確立するのが

難しいのかと問われれば

そうではないと言えるだろう。

 

少なくとも、文明がまだ未発達の時代では

この前提は否定されるのであろう。

だが、今はたくさんのモノが溢れている。

 

言葉だけに頼っている訳では無いだろうが...

それを全否定するには至らない。

 

まだまだ勉強不足だな...

ヒエラルキー 2

恋人がいるからと言って、

ヒエラルキーが上とは限らない。

 

価値を決めるのは本人。

他人が決めた価値で他者を見比べるのは

色眼鏡で見るのと一緒だ。