空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

年齢層と考え方

年齢を重ねる事に

考え方が固執しつつあることは否めないだろう。

 

経験から来るものと、

未知のものに対しての恐怖心、

本等からの知識。

誰かの概念。

 

基本的に人の思考というのは、

誰かの思考の集合体なのだ。

 

その中で経験と知識で少しづつ変化し

劣化、進化、と言えばいいのか、

更新されつつあると言えばいいのか…

 

それまで蓄えた知識と経験が年齢を重ねる事に、

異変や、変化、異常な状態から

自分にとっての通常になりうるからだ。

 

刺激はいつしか薄れ、当たり前になる。

当たり前になると、変化を必要としなくなる。

だからこそ、考え方が固執してしまうのではないのか?

新しい状態を受け入れれないという話も言えなくもない。

 

理解できない。

理解出来るが、効率の問題で...

効率は良いが、そのための技術が今ひとつ...

 

他にもあると思うが、今は思いつくだけ

 

要は、プライドが邪魔をする部分もあるという事。

それを忘れてはいけない。

視野を狭めるのも、広めるのも自分次第で

それに気づいた時には

その考えから逃れられないことが多いかもしれない。

 

だから気をつけないといけない。

自分の常識が他人の常識とは限らないのだから。

これは愚痴だろうと思う。

哲学的な話をすることのできる友人は少ない。

ましてや、

見知らぬ人ならもっと出来ないだろう。

 

何故なら、それが彼らの興味を引くものでも

人生にとりわけ必要なわけでもないからだ。

 

だから興味ないひとにそんな話をしても

興味ない。なにそれ。意味がわからない。

 

そんな顔をされてしまう。

 

だからこんな世界は息苦しくて仕方ない。

そう思ってしまうのかもしれないな。

 

理解して欲しい訳では無い。

共感して欲しい訳でもない。

 

ただ語り合いたいだけ…

そこで何かを得られるのなら、

その一時が有意義なものになるだろうから

 

The timemachine (映画)

前々から見ようと思っていた

タイムマシンという作品。

 

見ていてすごいなと思ったのが、

タイムマシンの構造。

 

元は蒸気自動車かな?

それに加えて両端のプロペラ部分が

マシンの周りに電子?の膜を張るような構造になっている事だ。

 

電子の膜を張っているという状態こそ謎で、

映画のシーンで出てきていた、

タイムマシンの設計図、

あの構造を見る限り、電磁石の磁力の軌道

ブラックホールが球体であるという構造によく似ていると思う。

 

うまく説明出来ないのだが、

遠心力と、回転数、磁力軌道…

あと、なんだろう…?

球体の中に人が入れて、なおかつ

中では時間が進まず?

外とは違う時間の流れ、時を行き来するために操縦者にかかる肉体的重圧、

 

地球を光の速さでぶっ飛ばしたら

タイムトラベルできる…?

 

原理的には、タイムマシンの構造が

地球に似てる…なら、もしかしたらいける?

証拠証明、云々について

色々炎上騒ぎで

証拠、証明だの言ってるけど
タイムマシン作って過去に戻って

ライブ配信でもすれば証明になるのか!?

って話になると思う。

 

まず、タイムマシンで過去に戻るとしても、

本当に自分の居るAの世界なのか?という話が持ち上がると思う。

 

なぜなら、

ドッペルゲンガーの話ではないが、

同じ世界、時間、空間に同一人物が居る事が有り得ないために、

その存在が消える。もしくは、自分が死ぬという話。

 

SFチックだが、

可能性としては有り得なくもないと思う。

そうなると、

過去に戻った時にAではなく、

A'に着く可能性がある。

 

なら、それは証拠として価値があるのかどうかは別問題。

 

価値感の相違で外野が喚くのは別問題だと思うが、言いたいだけかな...。

主張したいだけ。かな?

LUCY 映画の一部より

映画LUCYの終盤より

 

“1+1=2ではなく、1+1=∞になる”

人間が理解しやすいように

数学を用いて出した答えが2だったというだけ。

という話。

 

その数学的要因を除けば、

1を何と明記するかによって

無限の公式は成り立つという事。

 

例えば、

飴玉が1つずつ入っている袋が二つあるとする。

こうした時に、

両手に一つずつ袋をもって

右と左を足すといくらになりますか?

という質問をしたら大抵の人は

“ふたつ”と答えると思う。

 

だが、“右と左”とは言ったが

“何と何とは明記していない。”

 

袋または飴玉のどちらかを1とするか、

袋と飴玉の数で1とするか

 

つまり、空間を1と捉えるか、

空間の中にあるものを1と捉えるかの違い。

 

難しい。説明するのが下手なのが憎い。。

 

ヒトは人でしかないなら、

それ以上も、それ以下もない。

 

なら、その価値感の概念は誰のもの?

 

少数が世界を変えるなら、

多数はそれに従うか、それに流され

それに“似た 何か”になるだけ。

 

選んだ答えも、すべて違うはずなのに、

過去の栄光に文句を言うのはおかしい。

だって選びとったのは他の誰でもない。

自分のはずなのに、

なぜ、あの頃は、あの頃は。と過去を求めて振り返るのか。

 

戻らないからなのか、

戻る事が出来ても、

きっと、その道を選ぶから戻れなくなる。

 

変わらない…