空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

捨てるべき…?

受け入れれるものは受け入れる。

受け入れないものは自由の範囲。

 

だが、理不尽には受け入れ難い。

 

勝手な感情の押しつけにはうんざりだ。

そんな事で解決するのは一時的なもので、

また違う面が見えればそれをつつこうとする。

 

反吐が出る。

 

だからどうした。

そんな勝手は聞いてない。

興味ない。

押し付けるな。

 

鬱陶しい。

 

問題はプライド。

あと、思考。

 

考え方の違いを理解しろなんて1言も言ってない。

 

理解しなくていい。

わからなければ、興味を持たなければい。

そういう人だという線引きをすればいいだけ。

 

それが出来ないのは何故?

 

答えは明確。

“自分の思い道理にならないから”

 

他人をなんだと思ってるんだろうな。

お前のおもちゃではない。

そして、肩書きで得られた

その立ち位置に

自分が他者よりも上だと言う優越感に浸りたいだけ。

 

だからそれに反する者を

“排除”もしくは“従僕”させようとする。

 

そこには

自分に対する承認欲求が混ざっているだろうと思う。

 

だから、自分より立場が低く、

尚且つ反発しない、もしくは

反発しながらも一応は従う…

 

長いものに巻かれるふりをする。

そうすればいいのだが...

やったところで変わりはしないだろう。

 

私の方が相手に理解して欲しいとも、

理解できるとも思っていないから。

 

だから無駄なことはしない。

労力の無駄。

割り切るのが大切。

 

それでも限界は来る。

だからその前に感情を切り替えるか、

その存在を自分の中から消すか

その場所から

去るべきだろう。

 

視覚

視覚からの情報に頼りすぎている。

ならば、視覚を覆えば、無くせば良いのか?

 

とても不便かつ、

とても窮屈な世界でただ独り置き去りにされる。

見えない恐怖。

見なくていいものを、もしくは、

見たくも無いものを見なくて済む。

 

だがしかし、

逆を言えば代わりの器官が発達する。

嗅覚、聴覚、触覚、感覚も鋭くなるだろう。

 

なのに、この身体が自分のものでない気がする事があると思う。

 

今の私にはそれはわからない。

 

目を覆い、光を遮断し、音と感覚、嗅覚を頼りに真似てみる。

それぐらいしか出来ない。

 

それでも、触ってるものは分かるが

得られる情報は限られてて、

それのイメージが頭の中で浮かばない事だ。

 

色の音がわかる訳でもないから

それが何か分かっても色がわからない。

 

色が分かっても分からないものが多い。

色があるのに色がないみたいに...

 

 

年齢層と考え方

年齢を重ねる事に

考え方が固執しつつあることは否めないだろう。

 

経験から来るものと、

未知のものに対しての恐怖心、

本等からの知識。

誰かの概念。

 

基本的に人の思考というのは、

誰かの思考の集合体なのだ。

 

その中で経験と知識で少しづつ変化し

劣化、進化、と言えばいいのか、

更新されつつあると言えばいいのか…

 

それまで蓄えた知識と経験が年齢を重ねる事に、

異変や、変化、異常な状態から

自分にとっての通常になりうるからだ。

 

刺激はいつしか薄れ、当たり前になる。

当たり前になると、変化を必要としなくなる。

だからこそ、考え方が固執してしまうのではないのか?

新しい状態を受け入れれないという話も言えなくもない。

 

理解できない。

理解出来るが、効率の問題で...

効率は良いが、そのための技術が今ひとつ...

 

他にもあると思うが、今は思いつくだけ

 

要は、プライドが邪魔をする部分もあるという事。

それを忘れてはいけない。

視野を狭めるのも、広めるのも自分次第で

それに気づいた時には

その考えから逃れられないことが多いかもしれない。

 

だから気をつけないといけない。

自分の常識が他人の常識とは限らないのだから。

これは愚痴だろうと思う。

哲学的な話をすることのできる友人は少ない。

ましてや、

見知らぬ人ならもっと出来ないだろう。

 

何故なら、それが彼らの興味を引くものでも

人生にとりわけ必要なわけでもないからだ。

 

だから興味ないひとにそんな話をしても

興味ない。なにそれ。意味がわからない。

 

そんな顔をされてしまう。

 

だからこんな世界は息苦しくて仕方ない。

そう思ってしまうのかもしれないな。

 

理解して欲しい訳では無い。

共感して欲しい訳でもない。

 

ただ語り合いたいだけ…

そこで何かを得られるのなら、

その一時が有意義なものになるだろうから

 

The timemachine (映画)

前々から見ようと思っていた

タイムマシンという作品。

 

見ていてすごいなと思ったのが、

タイムマシンの構造。

 

元は蒸気自動車かな?

それに加えて両端のプロペラ部分が

マシンの周りに電子?の膜を張るような構造になっている事だ。

 

電子の膜を張っているという状態こそ謎で、

映画のシーンで出てきていた、

タイムマシンの設計図、

あの構造を見る限り、電磁石の磁力の軌道

ブラックホールが球体であるという構造によく似ていると思う。

 

うまく説明出来ないのだが、

遠心力と、回転数、磁力軌道…

あと、なんだろう…?

球体の中に人が入れて、なおかつ

中では時間が進まず?

外とは違う時間の流れ、時を行き来するために操縦者にかかる肉体的重圧、

 

地球を光の速さでぶっ飛ばしたら

タイムトラベルできる…?

 

原理的には、タイムマシンの構造が

地球に似てる…なら、もしかしたらいける?

証拠証明、云々について

色々炎上騒ぎで

証拠、証明だの言ってるけど
タイムマシン作って過去に戻って

ライブ配信でもすれば証明になるのか!?

って話になると思う。

 

まず、タイムマシンで過去に戻るとしても、

本当に自分の居るAの世界なのか?という話が持ち上がると思う。

 

なぜなら、

ドッペルゲンガーの話ではないが、

同じ世界、時間、空間に同一人物が居る事が有り得ないために、

その存在が消える。もしくは、自分が死ぬという話。

 

SFチックだが、

可能性としては有り得なくもないと思う。

そうなると、

過去に戻った時にAではなく、

A'に着く可能性がある。

 

なら、それは証拠として価値があるのかどうかは別問題。

 

価値感の相違で外野が喚くのは別問題だと思うが、言いたいだけかな...。

主張したいだけ。かな?