空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

ユートロニカのこちら側 小川哲

ユートロニカのこちら側
まだ読んでる最中なんだが、

なかなか面白い。

 

伊藤計劃さんの“ハーモニー”


デイヴ・エガーさんの“ザ・サークル


ジョージ・オーウェルさんの“一九八四年”

を掛け合わせた雰囲気がなんとも言えない良さを醸し出してる。

 

作中の

“足し算の出来るゴリラは

朝食のあとにブラックコーヒーを飲むか?”

という質問には色々と考えさせられる!

 

まず、足し算の出来るゴリラ。

これを人の比喩としているならば

 

ゴリラ体型な人なのか?

雰囲気がゴリラっぽい...いや、これは失礼な言い方だな...。

 

ゴリマッチョとしよう。

 

逞しい筋肉をした男性のイメージが浮かび上がる。

アメリカか、中南米の方の方かな?

タンクトップとジーンズが似合う感じの方のイメージ。

 

ブルース・ウィルスさんや、

サミュエル・L・ジャクソンさんが

1番イメージに近いかもしれない。

 

彼等が朝食のあとにブラックコーヒーを飲むか?

と聞かれれば、飲むかもしれないし、

飲まないかもしれない。

だが、イメージとしては飲む(飲んでほしい)

という感じだ。

 

逆に人の比喩では無いと称して考えてみよう。

ゴリラが、朝食(リンゴやバナナ)を食べて

その後にブラックコーヒーを飲むのか?

 

甘いものを食べて口直しがしたい。

と思うかもしれない。 

 

それとも、人の様に習慣でコーヒーを飲むかもしれない。

 

物語の様に、スーツを着たゴリラが朝食のあとに新聞を読みながら

片手にブラックコーヒーを...

なんてあるかもしれない。

 

動物園や野生のゴリラがブラックコーヒーを飲むか!なんて言う人も居るだろう。

 

そもそもなぜブラックコーヒーなのか?

紅茶やスムージー、ジュース、お酒だって有り得るかもしれない。

 

ここで問題なのが、

“足し算の出来る”という事だ。

 

足し算ができるなら、

他の計算も出来るかもしれない。

という考えに繋がる人もいると思う。

私がそうだ。

 

足し算なんて、なんて思うかもしれないが、

足し算が出来るなら、

ある程度の知識もあるはずだ。

 

それがどれ位なのかは分からない。

そうなってくると、

飲まない可能性よりも、

飲む可能性の方が強くなってくるのではないか?

と思ってしまう部分がある。

 

そこに ぽん と置いてあったりしたら飲むかもしれない。

飲まないかもしれない。

 

なら、飲む方が面白そうじゃないか。

と思ってしまう。

 

飲む可能性についてばかり語ってしまってるが、

飲まない可能性は

普通に考えてゴリラが人の様に

ブラックコーヒーを飲む姿を“想像出来ない”

もしくは、

それは“ありえない”からという感じなのだろう。

 

私は飲むと思う。

 

私は飲まないと思う。

 

このどちらも答えなのではないかと思う。

自分が選択した答えにこそ、意味があると思うから。

 

ノーストリリアももう少しで読み終わるし、

他のも読み進めないとな。

 

脳 (未完)

人はいつから自分が自分であると確証し、

自分と決めるのだろうか?

 

なぜそれが自分だと言うのか。

 

それは誰かに作られた存在では無いのか?

 

そんな事を...普通の人と言ったらおかしいかもしれないが、

そんな事に疑問を持たない人にとっては

興味の範囲外で、

気に求めないだろうなと思う。

 

 

脳が自我を持ってるのではなく、

感覚の集合体が脳であり、記録媒体であるのだと私は考える。

 

 感覚を得ることで、感じることが出来る。

感じることが出来なければ

それを得ることはひどく難しいことになるだろう。

 

 例えば、冷たい。熱い。

細胞の集合体、肉塊の一部、

触れたものから神経へ電気信号に乗って脳に送られる。

脳は処理してそれを認識する。

 

ならば、細胞や、神経が自我を持ってもおかしくないのでは無いか?

と思うのだ。

 

集合体のコアが脳ならば、

違うな。大元が脳で、脳は何も感じない。

脳だけならば感じる事が出来ない。

という方が正しいだろう。

 

細胞や神経からの情報がなければ

感覚を得ることは出来ない。

 

脳だけあっても、肉体がなければ

空想や妄想でしかないのだ。

 

情報がなければ脳はただのデバイス...?

 

気づかない事に気付けたら...?

人間は社会的動物ではあるが、

仕事上では利用するかされるかだ。

そこに他意はない

 

人を殺すか、自分を殺すかだ。

肉体的ではなく、精神的に。

 

死ねないから生きる。

ならば殺せばいいという訳でもない。

 

いくら首をはねたとて、変わらぬものは変わらない。

気付ける者はひと握り。

 

突如として頭に浮かぶ言葉

もし、もしだ。

 

人間の脳がラジオや、

受信機のような役割を果たすとしたら?

 

たまに言葉が浮かんできたり、

何かを感じ取ったりする時があると思う。

 

そこでふと思った。

 

人の脳が受信機で、脳内電波、

もしくは電気信号、微弱な電気...電波?的なのを自分の脳内と合う波長というか、

ラジオの選局のような...

 

ある一定の数値だけ受け取れるとしたら?

 

もしかしたら、

人はテレパシーを覚えれたかもしれない。

 

こんなことを思うのは

コードウェイナー・スミスさんの

ノーストリリア”を読んでるからかな(笑)

得る。そしたら飛べる。

片方を得られなければ、

もう片方を知る事はないだろう。

 

両方を知れば、

どちらの良いところを取り入れる事が出来るはずだ。

 

自らが体験せずとも、

他者の歴史に学べることは多いはず。

 

読書は他者の作り出した文字列をなぞるだけ

という人もいると思う。

 

私はそれは違うと思う。

これはあくまで私の見解。

 

私は誰かの世界(思想)を読みたい。

誰かの描く

ディストピアであり、ユートピアを...

 

それがただの知識の集合体でも。

それを知る事で私は心が満たされる。

そこで自分がいつまででも飛べる、

飛ぼうとするならば、

きっとそれは自分が成長出来る証だから。

 

飛ぶために、空を見上げ、

手を伸ばすために、地を歩く。

 

いつだって飛べるんだ。

足枷は自分が付けてて、

それを生かすも殺すも自分次第。

飛べるんだ。だから死ねない。

まだ死ねない。読みたい。誰かの世界。

時間が足りない。

たくさんの本が、知識が、世界が

どこまでも飛べる翼になるから。