空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

戯言

つまらないな。

つまらない事に精神と脳内、

時間と細胞をかけることが1番の無駄だとは思う。

 

脳が痛みを感じるように、

体が痛みを感じる。

欲求がわらわらと増えて来て、

主張を始める。

 

くそったれみたいな

つまらない他人の 偏見と価値観 で、

誰かを規定する事がとても……とても……

 

まぁ、そんな話はどうでもいい。

人間から痛覚を取ったらまぁ、

腕の1本2本切られても気づけないだろうな。

動かそうとして先がないことに気づ……

 

タイタス・アンドロニカス……?

腕を切られてって所で思い出した。

あの話で、意思疎通しようと思えば出来るんじゃないかと思って……

両手と舌を切られたラヴィニア。

日本で言えば50音順の早見表みたいなのあるだろ?

あれで言わば指さして

(この場合腕だが)いくか、

瞬きや、頷き等で対話する事だって可能なはずだ。

耳は聞こえるのだから。

 

なんて、つまらない事を考えてるな…

 

虐殺器官より

感じられないのに認識する痛みってどんな感じなんだろう……?

 

一般的には認識した=感覚(痛覚)に何らかの刺激があるはず。

 

虐殺器官でそんな話があったなと思って

痛いと分かってるのに、

痛みを感じない……。

 

そんな病気もあったはず。

なんだっけ……?無痛病でもないし、

マルシリ症候群……だったかな?

 

痛みってなんだろうな……。

電気信号では、それを認識出来るのに、

それを言葉で表そうとなると難しいな。

 

痛み ……辞書で引くか。

ツァルストラ 続き

“あなたが「精神」と読んでいる

あなたの小さな理性も、

あなたの身体の道具なのだ。

わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。”

 

この解釈は面白い。

この後の一説もなかなか面白い。

-感覚は感じ、精神は認識する。

それらのものは決してそれ自体で完結してない。……-

この部分は特に面白い。

人間が感じること、 感覚

認識すること、 精神

その背後にはなお、本物の「おのれ」がいるそうた。

 

そして、その「おのれ」がわたしを、

私という存在に、精神に、概念や、感覚に。

聞いたり、たずねたりし、

比較、制圧、占領、破壊をして、

支配するそうだ。

 

“それは「わたし」の支配者でもある。”

と書かれている。

 

私という存在の影響は?

私という存在が得る影響?

刺激として、感覚として、思念としての

電気信号と、文字の羅列は

外から来る。そして、

中で反響し、共鳴し、並び替えられ、

破壊され、再構築され出てきた答えが

「おのれ」の身体であり、道具であり、玩具なのか?

ん?

色々とごちゃごちゃしてきたな。

後で修正するとしよう。

ツァルストラはこう言った 著ニーチェ 訳 氷上英廣

文中に

“わたしごつくったこの神は、

人間の作品であり、

人間の妄想であった。

すべての神々がそうであったように!

その神は人間であった。

しかも単なる人間と自我の貧弱なひとかけらであった。

私自身の灰と火影(ほかげ)から、

それは出てきたのだ。

この幽霊は。まことに!

それは彼岸からやって来たのではなかった!”

 

って書いてあるのだが、

最近本屋で 神は、人の脳が作った

だったかな?

これを見て思い出した。

 

人の脳が神という概念を作った。

もしくは、

人の脳が神を想像した。

の方が解り良いのになとか考えさせる本の題名を。

 

そして、

新興宗教的にはキリスト教徒さんの多い地方でこんな事書いてるニーチェさんの

ぶっ飛び具合。嫌いじゃない。

むしろ好きだ。

だか、

たとえ物語の中でも主人公の思想の中でも

信心深いひとから猛烈に

反感くらいそうな爆弾ふっこんだな。と

  

最初から爆弾投下してる作品だけども……

概念を幽霊と称した意味は?

 

人間の妄想なのか、幽霊なのか、

フェニックス的な言い回しなのか、

それとも誰かの思考から出来た想像の産物なのかどれかにしてくれ!

 

と思いながら読み進めば、

幽霊がいなくなって、

それを信じるのも悩みで苦しみだと。

屈辱とさえ称している。

 

概念にそこまで熱くなれるツァルストラ…

達成感とその他もろもろに満ち溢れてるのは分かる。

だが私の理解が、見解が追いつかない。

詳しく説明が欲しいところだ。

 

こういう時、タイムマシンとかあれば

その真意を聞いたり話したり出来そうだなと

よくよく思う。

 

似た性質

時たま映画や小説の中で既視感というものを感じたりすることがあるだろう。

 

自分の好きな作品同士が似ていたり、

本質が近いものだったり、

本質は全くもって別物だが、

どことなく似ているもの。

 

たまに思うんだ。

この世界とあの世界を足した世界が出来たら、

結末はどうなるんだろうって。

 

もしかしたら気づく人が居るのかもしれない。

他者に観測されてる事、

観測されていない事。

 

もし、シュレディンガーの猫の様な話なら、

観測されなければ私達は存在しない。

 

1人では観測したとしても、

その本人が認識や、意識、意思を……?

もしくは?

いや、私という個体を認識するのは私だが、

確認する術を持たないのだとしたら?

 

私という1個人や、個体、性質や、意識、

意思を確立するすべを持たないのだとしたら?

 

そこにあるだけの存在であったとしたら?

 

私というものを認識しても、確立が出来なければその存在は1と0の間の存在なんじゃないかと。

まぁ、そんな与太話さ。

 

考えてる時は楽しい。

それに集中出来るし、邪魔もされない。

 

伊藤計劃さんの harmony

御冷ミァハの言葉を借りるなら、

“誰かが孤独になりたいとしたら、

死んだ(デッド)メディアに頼るのがいちばんなの。

メディアと、わたしと、ふたりっきり”

 

私という存在と、その思考。

それを書き写すためのメモ。

 

1対1の関係。他の誰にも邪魔されない。

邪魔させない。

 

 

感情

電気信号で感情が認識されてるんだから、

プログラムされた感情は

人間とは違うのかという話。

 

とりあえず、人間の感情がプログラムでは無いという根拠がどこにあるという話しだ。

 

もし、感じる事が遺伝子的に無くなっていたら?

感情を持たない子供に、

感情が芽生えた時、彼もしくは彼女は何故その感情を知ったのか。

 

経験則からすれば、経験のちに理解し、

その電気信号が認識される。

 

AIはプログラムの時点で理解が始まってるのだとしたら?

プログラムが起動した時に人間ので言う

認識だとしたら?

 

人間もAIもその差分はほとんど無いのではないか?という考え。

まぁでも、プログラムは一定だからな。

学習能力と共に相手が変わっても同じ状態かと言われれば、

選択肢の問題が出てくるだろうな。

その状況状態で変化するから。

 

合理的なのがAIで、

どちらかと言えば感情的なのが人間なのだろう

ああ、

時たま思うよ。 自分の脳を電子媒体に繋げれたらなって、

 

そしたらいちいち指で書き込まなくても済む

勝手に記録してくれるのだから、

訂正などはあとからすればいい。

 

ただメモがない時や、直ぐに忘れてしまいそうなそんな言葉達を

書き留められたらなと思っただけだ。

 

きっと今の世の中じゃ不必要なものだろうが

いつしかそんな世界が出来上がるかもしれない。