空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

記憶の王女 著 ロデリック・タウンリー より

読み手の意識と

語り手の意識。

別物なのにどうやって同じように……

 

読み手 私

語り手 物語の登場人物達

 

そうなんて言うか、

物語の中で、語り手たちが生きている。

物語を読まれるのを待っている。

だが、読み手には

彼らは文字の中の者で、それ以上でも、

それ以下でもなく、私たちの概念では

彼らは読み手の頭の中、文字の海、

読まれることによってそれが生きる。

生きている…?

 

読まれる、意識される、認識される

読まれない、意識も認識もされない。

シュレディンガーの猫みたいだな。

 

読み手の認識、登場人物たちの性格と、

語り手の性格は違ったものになる可能性は

捨てきれない。

=演じていると役の性格が同じものとは限らない。

 

役者。演出者。道化。

そんなとこだろうか?

本は読まれないとその物語は始まらない。

認識するものがいないから

 

人も…

ギャルリ・ミレー 先入観

絵の見え方は客観的かつ、

自分の知識の主観でしかない。

 

説明を読まずに物思いに耽ってる人の絵を見ると、

何を悩んでるんだ?何を見てるんだ?

何を考え込んでるんだ?

なんて思えてくる。

 

だが紹介文を見れば

奥さんを無くしたその悲しみに思い耽り、

悲哀…いや、心がどこかに行ってる様を描いたものだ。

(少々文が違うかもしれないが)と書かれてあった。

 

これは客観的でしかなくて、

ほんとにそうなのか?

そう描いたのかと考えてしまう。

 

本人から聞いたわけでもなく、

それを見た訳でもなく、

作品の紹介文を見てほおほおと納得するのがはたして正しいのか?

 

そして、その紹介文を見て絵を見ると

哀愁や、悲哀を感じるように見えてくる。

 

それはそう書いてあったから、

そうなんだろうと脳が処理したため。

じゃあ最初、絵を見た時感じたものと、

紹介文を見て感じたものの考え方の違いは?

 

先入観か。

やはり絵を見る時は1度ものを見てから、

自分が納得いく、もしくは疑問符を出せるだけ出してから紹介文を読む方が

違った価値観を垣間見れて楽しいな。

 

 

存在証明と意識と

自分が自分を認めれば、

それは私の存在証明になりうるのか?

 

  久しぶりにErgo proxyを見てたら、

“私は私を認め、

もはや他者の存在など必要ない”

というセリフがあって、

 

存在の証明に他者が必要無くなれば、

私は何を定義として私となすのか。

はたまた、それは私なのか?という事。

自分が自分を認めても、それは自分の中だけの存在であって

それは死ねない何かでしかないような気がして……

個人である前に、個体である前に

言葉を紡がねば伝わらぬものが

拙い言葉で紡ぐ何がが1番美しい。

 

とかなんとか、

色々端折ってる文が降ってきた。

 

言葉で縛る?形成される?

作られた何かで、証明し、

存在しうる何かになってる場合、

認識される前に、概念として有るそれは

言葉によって形が生まれた。

 

相手がいなきゃ、生まれない。

人間も同じか。

 

結局相対性理論に戻るのか

 

音として形在らずして、

存在の確立した何かは それ は……

生き物かどうか。

 

この世界ではダダの反響、振動からなる

意思疎通等で用いられる形なき伝達手段。

もしくは、、、

 

音は認識できる。

から 有る という表現をしたらおかしいかもしれないが、

存在する。(音として)

幽霊は認識出来ない。

もしくは、出来たとしても

それを証明するすべがない。

存在するとしたら音と同じ扱いか

存在しないとしたら、音と同じ扱いではない理由は?

 

反響、振動した目に見えない何か

触れない

見えない

味はない

消えてしまう。

……?

謎かけ?

それであってそれでないものを

証明する為には?

 

シュレ猫か、ウィグナーか、

観測する対象と、それを認識する術が必要。

そして、比較対象。

 

それ であって、それ でない。

 

はたしてそれとは?