空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

付箋

不倫について言えば、

“他人のもの”と称されると

夫、もしくは妻が所有物の様に物として捉えられないかと言う不安が残る。

 

付き合ったのだから、

あなたは私のモノ。

 

結婚したのだから、

あなたは私のモノ。

 

“モノ”として言われた事に対して

物と称すか、者と称すか…

声で発せられたものは意味をよく履き違えられる。

受け取り方についても同じように…

 

パートナー(相方、相棒、(伴侶))として言ってるのか、

モノとして言ってるのか、

言葉に意味を付けて交わすなら、

その意味を理解して、見解を相手と同レベルにまで噛み砕いで、

溶かして、固めて、やっと繋がるのではないか…?

 

言葉に意味を付けて、

付属をつけて、私の意思は、意味は、私はこうだと付けなければいけない…

 

明確にしなければいけない。

倫理感をつけなければいけない。

なんともめんどくさいものだ。

戯言

“あなたが あたらしいから、

古典を読む 意味がある”

 

と、カフカの本の帯に書いてあって

 

著者が随分昔に亡くなっているから、

古典なのか。

著者亡き本の数々は古典なのか。

私は知らぬ内に古典を勉強していたのか。

 

なんて思ってはみたが、

古典なのか、作品なのかはどうでもよかった。

ただ、そこにあって、その世界が楽しかった。

勉強していた訳でもない。

知りたかっただけ。

ただそれだけだった。

 

 

本より

「世界は消えていない。消えたのは人間だけ」

「だけど人がいない世界なんて、消えたも同然なのでは?」

「人は世界ではない。人がそう思ってるだけのこと。せかいは、人が居なくても消えない。人以外のものが沢山いる」

 

神はいつ問われるのか?

森博嗣 より

 

世界が人間中心で回って考えること自体、

人間の傲慢さなのかもしれない。

このやり取りを読むとそう思ってしまった。

 

読書をするには環境と椅子、

クッション、飲み物を揃えなければならないようだ。

 

クッション自体はあってもなくても別にそこまで変わらないが、

椅子はあった方が良いみたいだ。

座椅子でもいいのだが、

もたれかかれる椅子がある方が読みやすい。

 

あとは、環境としては集中出来ること、

リラックス出来ること。

そうすれば、2、3時間もあれば

途中メモを取ったり、

一説に対しての考察を書きながら1冊は読み終えれるだろう。

 

つい入り込んだり、考察してメモ書きをしてしまうことに関しては

そういうものだとして扱っている。

 

見ていない。ものに対して

男として見ていない、

女として見ていない。

その背景には

人間として見ている。が隠されているのではないだろうか?

 

興味の範囲外、近親者、

友人や敬愛する人等々を除けば

男女がどうのという考えの前に、

性別を分けることに対して差別的、もしくは

色眼鏡をかけているという事になるのではないだろうか?

 

別にそれがどうという訳では無い。

性別を無視して対等に語り合える存在、

もしくは、それに値する信頼等が築かれている。

または、性別を気にしておらず、

人間として見ている。

同類として見ている。

肉の塊に知識が付いていて、

語る事が出来る口が備わっている。

とでも考えているのかもしれない。

 

人であって、

見ているのは人か頭の中(知識と好奇心)か、

どれを見ているのか。