やっぱり、人が見るのは結果だけなんだなって思うところはある。
いや、結果しか伝えてないから結果しか見えないのか。
だから結果論になる。
経過を伝えても結果しか見ない部分があるのも事実。
経過 結果 一区切り | 経過 結果 一区切り |
その繰り返しの終わりが結果。
現在と過去と同じ状態。
ただそれが、これを描き続けてる時、その瞬間、瞬間が今(現在)なだけであって、
過ぎていく一瞬は過去なのだ。
行動が結果 それに付いて回る評価。
意識、認識しなければ、
自明で生きられれば、人は成長しないまま?
進まないまま。あるがままに生きて
悲劇なんかもなかったのだろうか?
ジョージ・オーウェルさんの1984年
作中のビックブラザーみたいなコラが出来てた…
過去に創造された書物は未来を称してた。
やはり、人が想像した世界はいつかどこかで交わり合うのだろうか。
いつか誰かの物語が現実になるかもしれない。
自分だけど映し出されたものは客観的に見てるから、
自分ではない。と錯覚する。
自分でありながら、それに近い何かになる。
だから、鏡を見ながら自己暗示をかけると
かかりやすく?なる。
いやまず、自分を見るには他者の存在が必要だから、
自分が見てる世界、見えてる世界、
価値観の違いやら全部抜きにしても、
鏡がなければ、写真なり、石膏、他者に描いてもらう、自分で触って感じる…とか。
反射させるか、客観視するか、
触って思い浮かべるしかない。
絶対的に自分と同じものを作るならコピーするしか…
いやそれでも自分1部から離れたなら、
それは私ではなく、
私だったものとして客観視されてしまう。
自信ですら客観視出来るのだから
本当の私とは…?
たくさんの継ぎ接ぎで出来た達の意思は、
意識は、存在は、
本当に私だけのものだろうか?