空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

harmonyより

自殺行為、自殺は悪とされる風習がある。

 

自ら傷つけ、死ぬ行為はダメだと。

そう言われ続けてる。

 

だけど、死んだら死んだで、

誰かのせい。死んだ人のせい。

社会のせい。

 

誰かに責任を押し付ける。

 

“なぜ、ダメなのか。”

という事を少し書こう。

 

harmonyでの文を少し引用するならば、

“私たちの身体は公共的、

社会的リソースに当たるから。”

 

だから、私たちの身体は私達のものではなく

社会の人質なのだ。

だから、 私たちが自らの身体を傷つける事は許されない。

ましてや、自殺行為なんてもってのほかだ。

 

そんな事を伊藤計劃さんのharmonyを読む度に思わざるおえない。

 

じゃあ何故、人は自殺するのか?

という疑問が浮かぶはずだ。

 

身体を傷つけてはいけない。

とは言われ続けてるが、

逆に言えば

“見えるものは傷つけてはいけない。”

“見えないものなら、形のないものなら、

傷つけても分からない。”

というものだろう。

 

 だからこそ、人はひた隠しにしながら

自らの身体を傷つけ、

私は私のものだと主張するのだろうか?

 

先の見えない不安に

心が、身体が悲鳴をあげる。

 

私は死にたい。

だが、死ねないのだ。

 

自ら死ぬことは 許されない。

誰かを道ずれにしかねない。

守りたいものを、傷つける行為だから。

 

そんな事はどうでもいい。

 

なら、死んでもいい理由は?

 

社会的に必要価値が無いから?

 

それは他者の価値で、私の価値ではない。

それを私に押し付けると言うなら、

それは傲慢と言うべきじゃないだろうか?

 

 

先の見えない不安から解放されたい。

 

死後がどうなってるかすらも分からないのに、“先の見えない不安”と言うのは

些か矛盾してはないだろうか?

 

 

壊れていく恐怖から逃げたい。

これは先の見えない不安と同じ。

 

死ぬ事で、存在の証明をしたい。

存在というものを

自分1人で証明出来るものでもない。

ならばこれは死ななくても別の方法はあるだろう。

 

いつか必ず死ぬから。

じゃ、今死ななくも同じ。

 

はやく死にたい。

この身体が壊れていく恐怖から解放されたい。

他者の価値で私を生かすのか?

私は私の価値で私を殺すのだ。

この体は私のものだと示すために。

 

誰かのリソースでも、公共的身体でもない。

 

 死んでいい理由も、死んだらダメな理由も、

どちらも=じゃ無いのだろうか?

表と裏の様に...