空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

煌夜祭 多崎礼

語り部の物語。

 

すごく引き込まれるし、

朗読会でも開こうかなんて思ってしまうほどの作品。

 

この時間帯だ、

最後まで読むか迷ってるのだが

語るならば一言だけと思い、

ただ、ただ言葉を走らせる。

 

もし、自分がどちらかの立場、

この場合、

語り部か…物語の要と言うべきか、

魔物、化け物、人であって人ならざる者と

呼ぶべきなのか…

いや、

語り部達と対等の立場にいる以上、

彼等はそうだな…“聞き手”と称しよう。

 

語り部と聞き手、

彼等の生きた物語と言うべきかな。

 

人生と称するのは違うし、

 

ひとつひとつの物語に学ぶものさえある。

それは、

ニセモノがホンモノになる事だったり、

大切なものを守る為に

何をすべきなのかを考えさせられたり、

自分で答えを探すことの前に、

誰かにすぐ答えを求める浅薄さだったりする。

 

あぁ、なんて、、、

なんで、“気づけないんだろう”

なんて思ってしまうこともあると思う。

それに気付けたなら、

“その先は自ずと分かると。”

そう思わせてくれる作品だ。

 

だから終わらせるには惜しいのだ。

読み終わらせてしまうのが、

こんなにも惜しいのだ。

 

物語の中でならこんなにも飛べるのに!

なんて思ってしまうくらい、生きた世界なのだ。

 

あぁ、伝えたい事が、言葉が足りない。

ただ、ただ、

終わらせたくない。

夜通し語っていて欲しいくらいだ。

 

夜通し語る、シェヘラザード、

千夜一夜物語みたいだな。

王様の心を開かせ、誰も殺させない為の

誰かのセカイを語る語り部の話。

 

あれは、この物語によく似ている。