“あなたが「精神」と読んでいる
あなたの小さな理性も、
あなたの身体の道具なのだ。
わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。”
この解釈は面白い。
この後の一説もなかなか面白い。
-感覚は感じ、精神は認識する。
それらのものは決してそれ自体で完結してない。……-
この部分は特に面白い。
人間が感じること、 感覚
認識すること、 精神
その背後にはなお、本物の「おのれ」がいるそうた。
そして、その「おのれ」がわたしを、
私という存在に、精神に、概念や、感覚に。
聞いたり、たずねたりし、
比較、制圧、占領、破壊をして、
支配するそうだ。
“それは「わたし」の支配者でもある。”
と書かれている。
私という存在の影響は?
私という存在が得る影響?
刺激として、感覚として、思念としての
電気信号と、文字の羅列は
外から来る。そして、
中で反響し、共鳴し、並び替えられ、
破壊され、再構築され出てきた答えが
「おのれ」の身体であり、道具であり、玩具なのか?
ん?
色々とごちゃごちゃしてきたな。
後で修正するとしよう。