空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

深く追い詰めれば

物事、事物、主観的なものは、

何かに頼ってもしくは、相対的な存在で成り立っている?

 

深く追い詰めれば、己を知る事とかけ離れ、

思考の闇に呑まれる。 

 

深淵を覗きすぎるのも、

真綿で自らの首を絞めるのも、

主観的なものでしかないんじゃないだろうか?

いや、もしかしたら、客観的な...

意識の集合体?

言葉に頼りきりすぎるのもダメだな...

 

気をつけねば。

 

言葉の羅列

メメントモリ:自らがいつか死ぬ事を忘れるな
って意味だけど、
死って何?むしろ、生って何?
終り?始まり?
それは全部言葉の羅列でしかないんじゃないだろうか?


言葉に頼りすぎている。

 

哲学も言葉の集合体だろうが...

ヒエラルキー?

もしかしたら、

前にも書いたかもしれない。

 

ブランド品を身につけている人は

その人に価値が"ある"

もしくは、"出てくる"のか

それとも、

ブランド品自体に価値があるのか。

という問題がある。

 

これは私の個人的な主観であり、

答えではないとは思う。

 

私の中では、ブランドという名の存在、

もしくは、その商品自体が価値があるものであって、

それを身につけている人は、

“虎の威を借る狐”にしか見えないのだ。

 

父は言っていた。

「“ブランドを身につけている自分は

お金があるんだぞ”

という主張をし、自分という存在に価値を与えようとするのだ。」と

お金があるからヒエラルキーが人より上だと主張しているに過ぎない。

 

ブランド品を身につけているから何だと言うんだ?

傍目から見れば、歩く広告塔じゃないのだろうか?

 

そう言ってしまえば、

身につけているもの全てはそうなのかもしれないが、有名なものかどうかは大きな違いが出てくるのではないだろうか?

 

ブランド物は有名な分、

その存在が意味するものは大きい。

だがその反面、自身の小ささを知らしめているのかも知れないのではないだろうか?

 

答えは無いかもしれない。だがしかし、

人の意識の違いは大きい。

観測(認識)し、意識する事によって

意味も価値も生まれる。ならば、その価値はどこから?

風潮か?思想か?願いか?存在か?

今の私には分からない。

 

いつかわかる日が来るのだろうか

ジョージ・オーウェルの

一九八四年の1説にあった

思考犯罪 という言葉。

 

思考内で何をやってもその行為は

思考内である事には変わらない。

 

想像する事と同じだが、

それを現実と頭の中と分けていても

その思考は汚染されていく。

 

想像する事はいい事だ。

だが、思考犯罪は別だと思う。

部別出来なくなってしまえば、

それは実行してしまう事と同じだから。