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空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

ハーモニー(harmony) 著:伊藤計劃 より

ハーモニーの映画を見ながら、

最後のシーン。

 

トァンがミァハと再開し、語り合い、

そして、ミァハに銃を突きつけるシーン。

 

ミァハを銃で撃つトァン。

原作とは少し違うラストシーンだが、

今回はトァンの台詞について思う事があった。

 

よく言われてるのが、

この作品は百合小説という事だ。

私はこの作品は百合とは思わない。

 

ただ、目の前にいるのに

自分よりはるか高みに居る存在を追いかける。

 

ただその対象が“同性”であった。

という事だけだ。

 

学者が未知のものを追いかけるのと同じ。

ロマンを追いかける者の話で、

百合とは違うのではないかと思う。

 

という、私の見解をさておき

本題は “愛してる。ミァハ” という、

トァンの台詞だ。

 

愛とは恋愛感情だけとは限らないという事だ。

何を当たり前な事を今更。と、

思うかもしれない。

でも、今の私はふと思ったのだ。

 

感情に流され、

その感情の本質を忘れてはいけない。

 

愛も恋も追いかける対象がいて、

ロマンの一部でありながらも、

その本質は全くの別物だと言うこと。

 

与えるか、求めるかでは意味が違ってくる。

 

日本語が一番そうだと思う。

言い方一つ変えれば全く違うものに見えるが

本質はどの位置で見るかで、

全く違うのだから

 

忘れてはいけない。

対等でありたいと願うなら、その為の知識が必要だ。

経験は全く同じ条件で得られたとしても、

得るものは多少なりとも誤差は出ると言う事を

東京...

これは個人の見解に過ぎない。

 

東京で歩く人は次第に足を早め、

いそいそと歩いては、携帯や、他者との会話を勤しんでる。

 

何もそれが悪い事だと言ってる訳ではない。

だが少し勿体ないとさえ感じる。

 

普段当たり前の様に歩いてる道、

小さな花壇一つとっても、手入れされてるか否かが酷く分かれている。

 

凄く綺麗に取り繕ってある景色さえ、

何かが足りないのだ。

 

東京では鳥があまり居ないのだ。

特に東京駅周辺は...

 

居るところには居るのだが、

ビル街の所には全くもってと言っていい程居ないのだ。

 

木の根元に羽が落ちていて、

鳥の巣でもあるのか?と思って目線をずらすと鳥の死体が...

 

綺麗に咲いた花でさえ、人は見向きもしないで歩いて行く。

そして、中身のあるのか無いのか分からない様な話をしながら歩き去っていく...

 

バベルの塔にでもしたいのか分からないが、

高いビル。

少々模様の凝った建物も有りはするが、

あまりにもシンプルな状態。

 

これでは何のビルなのかすら分からない。

 

なぜか、

仮面を被って立ってるように見えた。

 

 

未定

少し...書き留めておこうかなと思うのが、 

友人達について。

 

県外に出てる友人、

県内で就職している友人。

 

等しく友人である事は変わらないのだが、

あまり会えない友人と、久しぶりに会うと

色んな発見もある。

 

その土地に染まりつつあるのか?

と思いながらも、昔同様、同じバカをやった仲でもある雰囲気を醸し出してくれる。

 

だが一番は、元気そうで何より。

という事だけだ。

 

不思議だな。連絡は取れるのに、

対面していないだけで友人達に湧く感情が、

あの頃みたいに皆でバカをやりたいという事だけだ。

 

次は、みんなでまた花火...したいな。

懐かしいアニメより

デジモンこと、デジタルモンスター

 

近未来的な世界。

デジモンの世界にタイチ達が電子媒体(?)

として、生きている。

そして、デジモンの世界で死ねば

元の世界でも死ぬ。

 

この部分はソードアートと同じ。

 

そこで、電話やメール、電波を飛ばして

文字や言葉を音声として、または画像として表すものについて考えてみた。

 

知識がまだ足りないから間違っている部分もあると思う。

 

電話の仕組みは

音声を電気信号として送っている。

 

ならば、どこでもドアも同じ様な原理で...

肉体を分子、原子、量子、まで分解、

そして電気信号として飛ばして再構築できればと思ったのだが...

 

まず初めに、分解して、再構築した時に

果たして分解する前と後、

全く同じ量子になるかという事だ。

 

まぁ、まず無理だろうな。

密閉容器にでも詰めて運んだならまだしも、

分解して、飛ばしての時点でバラバラになるか、消滅するかしてそうだし。

 

どこでもドアと来れば、タイムマシンだ。

 

The time machine(タイムマシン)という作品がある。

H.G.ウェルズさんの映画にもなった作品だ。

 

そのタイムマシンには、

(肉体が耐えれるかは別として)

膨大な電気エネルギーが必要だ。

今の世の中じゃ、そんなエネルギーを使えば

世界が一斉に停電になるかもしれないな...

 

もし、

タイムマシンで過去に行けたとして、

未来は少しずつ変わるのだろうな。

 

未来からタイムマシンで来なかった世界

(タイムマシンが存在しない世界)

から、来る世界(存在する世界)に。

 

そしたら、映画、トゥモローランドみたいになっているかもしれない。

 

一人の少女の希望によって、

未来が変わるような世界に...。

 

仮説~結論 続き

Bが物語を消す。

もしくは終わらせることによって

想像(創造)した世界は存在を失う。

 

 世界線...の様だといえば良いのか...

Bは選択し、Aの世界は進むか消える。

 

仮説 2.5

自らとは別に他者が体内、もしくは体外で

身体をコントロールしている。

イメージとしては、ソードアート・オンラインPSYCHO-PASS、ハーモニー、電脳コイル攻殻機動隊の電脳世界が一番近い。

 

バーチャル内に世界があり、

機械を装着、もしくは、別の形で肉体を離れ、意識を別の場所で構成。

 

この場合違うのは、自分がそれを認識しているか否かという事。

 

そう考えると、何一つ本物なんて無い。

偽物も、本物も無ければ、

どちらが本物かなんて理由付て表す必要さえないのだから。

 

話を戻して、もし、

今認識している全てがバーチャル世界(а)で

死ぬ事で終わる。もしくは、

眠る事で“b”に戻れる

人生体感ゲーム...?のようなものだとしたら?

 

*眠:眠っている間は意識はスリープモード。

“b”での自分とは記憶は別々。

もしくは、“b”の方は記憶を両方保持できる。

 

時間に関して:“b”とでは違う時間軸。

時間という概念すらない。

“а”に入る時、時間が進み、出ると止まる。

 

ゲームカセットでの時間表記が近い。 

だが違うのは、自分の選択や行動でシステムの1部が常に変化する事。

基本的部分は同じで、エピソード等が変わる...

変化し続ける、マルチエンディング。

 

 

という仮説。想像。

意味は無いが、可能性としての話。

証明出来ないからといって絶対にありえないという事も無いはず。

 

言葉遊びかもしれない。

一つの願望かもしれない。

 

それは死なない事には確認出来ないうえに、

証明する術がないのが残念なところだ。

 

一つ、思い出した。

私はラブリーガール このドラマの様に

死んだらエスカレーターを上がり、

パソコンと、デスク。そこには人が居て、

『あなたは-』なんて、

現代的な風景の場所に行き着くかもしれないし、

死んで目が覚めたら

カプセルの中で、

『被検体番号-が目を覚ましました。』

とか、

『お疲れ様です。どうでした?今回の-は』

 

あるいは、何も無い白い世界、

真っ暗闇の世界、

意識さえ存在しない世界。

に行き着くかもしれない。

可能性は捨ててはならない。

 

ありえない事ほど、ありえるのだから。

自分の意識の範囲外に

世界があると思えば、ロマンを追いかける

ロマンチストだ。

 

わたしはいつまででもそうありたい。

 

 

小説 類似性

似ている...

 

虐殺器官、ハーモニー、イシュタム・コード

虐殺器官とハーモニーに関しては

同じ作者だからだろうが、

イシュタム・コードに関しては違う。

 

作品は内容も、

書風(...と言うべきか?)も違う。

だが、本質は似ている。

 

虐殺器官:虐殺のコード、脳、思考、地獄

ハーモニー:管理された人々、脳、思考、意識

イシュタム・コード:サーバー、脳、思考、

自殺のコード

 

すべてに当てはまるのは、

脳、思考、意思→人の行動(自殺・虐殺)

という事。

 

自殺・虐殺行為に関する1人のカリスマ。

 

カリスマ(を持った人物の有無)に関しては、

PSYCHO-PASSの作品も関連してくるだろうが、“自殺”

という行為としての存在ではなく、

他者からの“攻撃(行為)”としての存在なので、

今回の話にも入れるべきだろうが...

それは少し後で書こうと思う。

 

虐殺器官:ジョン・ポール

ハーモニー:御冷 ミァハ

イシュタム・コード:ジェス

 

3人に共通する事は、

世界を確変すること。もしくは、世界に打撃を与えること。

絶対者の概念...もしくは、絶対的存在。

人によっては善にも悪にもなる存在。

この部分にはPSYCHO-PASS槙島聖護も入っていると言えよう。

 

一人の人間に多数の人間が感化され、

踊らされている。もしくは、

それを自分の意識(自我)として、

動いている。

 

そして、カリスマ性を持った彼等は、

異形で、異質で、

他者とは異なる高みの存在。

だから、

イシュタム・コード内での言葉を借りるなら、

“生物の価値は量にあるから。”

量に満たさない彼等は消される。

というべきか、

別の言い回しがあると思うが、

今はこれしか浮かばないのが事実。

 

 

 

 

 

 

 

今の私では頭がオーバーヒートしてここまでのようだ。

本質は同じだと気付いたまでは良かったのだが、説明するのがあまり得意ではない。

脳内のイメージをそのまま表す事が出来たなら、人は変わるのだろうか?

 

技術が先行して、

人が退化していくのではないか...?

自問自答の繰り返しだ。

また、気付いた事を書き留めておこう。

仮説1~ 結論?

仮説2 補足事項

 

二次創作物について

二次元    l         三次元

    A         l             B

 

今認識している自我が

他者(第三者 仮にBとしよう)によって

作られたもとして仮定+仮説

 

Bが俗に言う現実世界とする。

A=Bの想像し、創造された世界の住人

なので、行動、思想、発言する言語さえ

Bがすべて担っている。

 

アニメの様なものと言った方がわかりやすいかもしれない。

 

なので、創造主Bの存在消滅、もしくは、

B自ら想像し、創造したAを消すことによって

Aの世界諸共消える。

 

存在はした。だが、存在の証明の仕様のないものへと変化した。

 

そして、意識というものは消える。

一番イメージとして近いのは、

伊藤計劃『ハーモニー』