空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

ドラえもん(タイムトラベル追記?)

ドラえもんの1話目は

未来からセワシ君とドラえもんがやって来て、 

のび太の運命を変える事。

 

この時点で、

α→αではなく、

α→α´に変換させているのだと思う。

 

でなければ、セワシ君の未来も変わり、

のび太の居るところには来ないのではないだろうか...?

 

多世界的解釈...でいいのか?

 

もし、仮にα→α´になるとしたら、

(αが消滅する)上書き。

(選択しなかった過去の話と通じるものがある。)

 

αとα´の両方が両立するとしたら、

パラレルワールド(?)に行った。

 

という仮説に行き着くのだが...

 

あの時、最初に来たセワシ君がα´のセワシ君だとしたら、

選択しなかったもう一つの過去の記憶も保持している事になる。

 

上書きか、個別保存か

どちらになるのだろう...?

 

イタチごっこだな。少し頭を冷やそう。

人間の脳

 タイトルとあまり関係ないかもしれないが、

もし、

この世界が自分の脳内で作られているとしたら。

 

人間の脳は約10パーセントしか機能していない。

なら、もし機能していないほかの部分が

別の場所で機能していたとしたら…?

(自分の認識している意識の外で)

 

いわゆる魂というもの。

意識の集合体。

大元。

機能していないとされている部分。

これが、

何らかの形で一つの集合体として世界を形作っていたら?

 

電脳世界で作られた世界だとしたら?

 

今はこれ以上浮かばない。

また何か思いついたら書いていこう、

タイムトラベル

タイムトラベルについてはよく言われてる、

過去を変えてはならない。

同じ時間に同じ人間、

つまり自分に会わないこと。

(ドッペルゲンガー現象)…etc

 

親殺しのパラドックスについては、

そのままなのだが、

タイムマシンを使って過去に戻る出来事を作った原因、もしくは、

要因を消すことは出来ない。

(親殺しのパラドックス同様)

 

もし仮に、

世界α(今の自分のいる世界)と

世界β(今とは違う自分(パラレルワールド))

に分断され、

過去に戻ったつもりが、

βの方に行き着いたとしたら...

親殺しのパラドックス ☆1、

ドッペルゲンガー現象 ☆2、

この二つは起きないんじゃないだろうか?

 

☆1:自分の親ではある。が、しかし

βの世界の親であるため、

αとは似ているが別物とされる。としたら…

βの自分が消え、αの自分だけが残る。

ので、1は起こらない。

 

☆2:パラレルワールドに来たと考えて、

同じ世界ではないので

同じ時間に同一人物が存在しえない。

だから、自分の存在は消滅しない。

 

という事を考えてみたのだが、

タイムスリップして出来事を変えたら、

どう足掻いても今の自分は確立できない。

もし、出来たとしても

それは選択しなかった世界に意識が入れ替わるといえばいいのか…

上書きされる。から、変わったことに気づけない。=証明の仕様がない…?

 

また話がループしつつある…

気を付けねば。

 

 

恋人...?

少々友達と話していたのが、

最初に付き合った人がその後で付き合う人に少なからず影響するという事。

 

最初に付き合った人と、

その後で付き合う人には共通点…

もしくは似たような雰囲気の人と付き合う可能性が高い。

という事。

 

その後でどう変化するのか分からない。

付き合う過程で自身が変化するのか、

それとも劣化するのか…

 

どちらなのかは分からない。

 

客寄せパンダ

客寄せパンダとはよく言ったものだ。

 

実際、パンダは可愛い。

好んでいる人も多いと思う。

 

今回はパンダについてではなく、

客寄せについてだ。

 

街を歩けば誰かしら

ブランド物、本、携帯、装飾品、衣類も合わせて(一見して目に付くもの)

を身に付けている。

 

服を着て歩く=歩くマネキン。

本を読みながら、

もしくは本を持って=歩く広告

携帯=持ち運ばれ、便利だとされる...

電波塔...いや、渡り歩く掲示板の様なもの

と言うべきだろうか?

 

人は、自らが何かしら広告として

使われている事に気付かない。

気づく必要すらないのかもしれない。

 

有名な人が持っているから。というだけで、

それには別の価値が付けられる。

 

傍目から見れば、

ダイヤモンドは綺麗なだけのただの石。

または、炭素の塊。

 

だが、それを人はただの石ではなく、

宝の石と称した。

 

それを身につけて歩けば、気づく人は気づくだろう。

気づく人にとっては、身に付けている人は歩く広告(マネキン)も同然なのだ。

 

自分がそれを付けて輝く...

と言ったらおかしいかも知れない。

 

他人と少し違うという事を知らしめるためだけに提示されたそれを、

持っていない人にとって魅力的であるが為に

自らも。と、買いに走る姿は

 

歩く広告にしてやられたな。

 

と、言わざるおえないかもしれないし

違うかもしれない。

 

人は他者を鏡に、そして、自分を付箋という広告塔にしてるのかもしれないな。

女が3人集まると...

言えんこと無いなぁ...

 

 言いたい放題、口が止まる時はご飯食べとる時だけ。

と思えば、

ご飯食べとってさえ、喋らん事も少なからず。

 

女3人集まるとうるさい事はあれど、

食べ物の話は尽きんな。

 

と、叔母達の話を聞きながら思う。

 

ハーモニー(harmony) 著:伊藤計劃 より

ハーモニーの映画を見ながら、

最後のシーン。

 

トァンがミァハと再開し、語り合い、

そして、ミァハに銃を突きつけるシーン。

 

ミァハを銃で撃つトァン。

原作とは少し違うラストシーンだが、

今回はトァンの台詞について思う事があった。

 

よく言われてるのが、

この作品は百合小説という事だ。

私はこの作品は百合とは思わない。

 

ただ、目の前にいるのに

自分よりはるか高みに居る存在を追いかける。

 

ただその対象が“同性”であった。

という事だけだ。

 

学者が未知のものを追いかけるのと同じ。

ロマンを追いかける者の話で、

百合とは違うのではないかと思う。

 

という、私の見解をさておき

本題は “愛してる。ミァハ” という、

トァンの台詞だ。

 

愛とは恋愛感情だけとは限らないという事だ。

何を当たり前な事を今更。と、

思うかもしれない。

でも、今の私はふと思ったのだ。

 

感情に流され、

その感情の本質を忘れてはいけない。

 

愛も恋も追いかける対象がいて、

ロマンの一部でありながらも、

その本質は全くの別物だと言うこと。

 

与えるか、求めるかでは意味が違ってくる。

 

日本語が一番そうだと思う。

言い方一つ変えれば全く違うものに見えるが

本質はどの位置で見るかで、

全く違うのだから

 

忘れてはいけない。

対等でありたいと願うなら、その為の知識が必要だ。

経験は全く同じ条件で得られたとしても、

得るものは多少なりとも誤差は出ると言う事を