空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

魂の存在

川田薫さんの“ 生命の正体は何か ”という本を

紹介された。

その本の内容を軽く教えてもらった。

ラット実験で、密閉容器の中にラットをいれて、その死後の質量経過を調べるという話。

その実験で、ラットの死後緩やかに質量が

減っていった事、

筆者の方はこれを生体エネルギーの移入

(俗に言う魂が抜けたのではないか?)という風に書いてるそうだ。

 

この話を聞く限り 、

魂は肉体という器があってこそ、
その存在が物体に寄生し、
寄生する物体が無くなれば魂という物質は

質量を持たない何かに成り代わる?


それとも、
密閉空間をすり抜ける程の粒子的な何か、
あるいは、心臓が止まって細胞が末端まで死に続けるまでの
細胞分裂時の消費エネルギー...
でもこれだとごく微量なエネルギーであり、

消費されたとしても、質量は変わらないはず。

 

密閉空間の気圧の変化...?
それでも密閉空間の質量は変わらないはず。

 

死体のエネルギー...じゃない。
死亡したと同時に、そのマウスの体内、

細胞の変化を随時観測するデータを取れば

どこの細胞が1番早く停止し、

どこが1番遅いのか。

それとも最後は同時に?

 

細胞が死ぬまでのエネルギー換算と、

部位によっての死亡、エネルギーの消費量、

密閉空間の中の粒子、量子、原子の分析、

その過程の経過。

どこまでが終りとするか。

 

細胞分裂が停止し、細胞機能が停止までなのか、

死後硬直で辞めるのか、

はたまた、肉体が骨と化するまでか。

 

考えたら止まらない。

だが、実験する術も、知識も足りない。

 

足りないが、楽しい。

 

どんぐり

会社の中で、社会の中で、

人は“ どんぐりの背比べ”をしてるんじゃないか?

 

漠然とした不安を目先に感じ、

自分の存在すらちっぽけに感じる。

 

会社の歯車でありながら、歯車が削れ、形が無くなり、

タダのそれに成り下がる。

 

そうしたら、人はどんぐりの背比べをしているのだろう。

皆同じ、足並み揃えて、日本人の傾向。

つまらない。

 

怖いなぁ。

新しいことを始めようともがいて、

漠然とした不安にぶち当たった時に

自分の存在が確立出来るか分からないことに

不安を覚える。

不老不死=?

不老不死=大老遅死じゃないか?

物語にあるように、

傷が一瞬で治るわけでもなし、

人間の体を鑑みればエルフ辺りが

一番近い存在だろう。

 

病気や怪我、それらが無くなれば

人には免疫すらなくなるだろう。

 

前にも書いただろうが、

人の体から細菌等がなくなれば、

(共存している部分も含め)

人が生きることは出来なくなるだろうという事。

 

脆弱で、貧弱で、今ある人の形すら保てない

存在になるだろうという事。

 

進化すら出来ないただ死にゆくだけ…

 

 

人間の脳の取り替え+α

人間の脳の取り替えるという話を読んだ。

 

人間の頭を取り替えるなんてことが出来るのだろうか?

拒絶反応の心配もある。

その前に、脳死した人間の体の

頭部を入れ替えただけで、

その体を動かすことが出来るのかどうか

という問題が浮かんでくる。

 

マウスでの実験は成功したらしいが、

マウスと人間では…と思う部分もある。

ならば、より人間に近いDNAでシュミレート出来ないだろうか?

とも考えるが、

やはり人間のエゴで動物の命を奪うのはと思う。

 

動物実験で成り立つ世界で何を言ってるんだ。

偽善者。そう罵られるのは仕方ないだろう。

だが、そうまでして永遠に生き続けなければいけないのか?

 

死があるからこそ、

生きることを確認出来るのだろう。

でなければ、

死など、生など、進化すら必要無い。

 

そうだ。

ゴキブリのように、人間はゴキブリを目指しているようなものだ。

 

数十、数百億年かけて、進化しつつも、

その姿形は変わらないゴキブリの存在は

人が望んた永遠に生きることと似ているのではないか?

 

人の延命処置には、

姿は変わらず、美しいまま、

永遠に行き続ける。

死なない。(死という概念すらない)

そんなイメージがある。

これは私の偏見もあるだろう。

 

ああ。そうだ、死なないで思い出した。

ノーストリリア”このSF作品では、

人が永遠に生きることが出来る薬を開発でき、そのため死なない人間が増え、

人口が増え続け、子供が増え続けるということで、

1,000歳になるとある館に行って笑いながら

狂い死ぬという話が冒頭部分にある。

 

不思議だな。

永遠を願っておきながら、死ぬことを選ぶのだ。

矛盾している。

でも、理解できない訳では無い。

だが、つまらないだろうな。とは思う。

 

結局、人は何になりたいのだろうな…

 

他力本願で、あるかもわからない未来に託して、

それを記録し続けるだけの、

コンピューターのようなものにしか見えなくなってくるな。

 

気を付けよう。

自分が何者なのか忘れないために。

言葉遊び

有り得るからこそ、

“ありえない”と考えるのだろう。

 

今日、明日のうちに死なないと思ってるからこそ、

明日への約束をするのだろう。

だってそれは、

“ありえる”可能性で、“ありえない”可能性でもあるから。

 

可能性の話をすれば無限に出るだろうが、

その中で現実性のないものを排除することが必要となる。

だからありえないと解釈するのだろう。

目次

そう、勿体ない。

 

自分の世界を広げるための媒体。

なのに、目次録…

寂しい世界。

つまらない。

でもそれを決めるのはその人自身で、

他者が口出ししていいことではない。

 

言葉を軽ろんじ、言葉を重んじる私には

それは言葉遊びと同じ。

それ以上でもそれ以下でもない。

 

効用を求めるなら、その本は指し詰め

専門書か教科書のようなものだろう 。

 

つまらないな。

 

そんなに勉強することが楽しいのか?

いや、知識を得るのは楽しい。

だがそれは興味の湧く範囲であって

それ以外はどうなのだ?と聞かれれば、

どう答えるのだろうか?

 

私の期待する答えが返ってくるか、

来ないかは私の価値観次第。

 

 

侍女の物語を読んで

今の時代からすれば、

ありえそうで、ありえない堺の世界だと思う。

 

男尊女卑の世界で、

女性の価値がある1点に絞られるのと、

宗教の統一?の問題もある。

 

はっきり言おう。

例えば、侍女の物語の主人公や、

その中の一人の女性になったとしたら

自らの命を断つだろうと思う。