空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

書留

そこで怒ったらそいつと同じレベル。

 会社の人と話しててそう言われたら

最初は納得できなかった。

でも、何となく納得した。

 

あ、そうだ。そいつと同じになりたくないと思ったからだ。

自分は自分である以上、他者は他者。

鏡であり、反面教師。

 

そうだった。話してて

“いつ死ぬかわからない”

と話したら、

今は事故でも病気でも何でもあるもんの

と言われて、

あ、この人は理解ある人なんだなって

再度確信した。

 

昔から比べると今の時代は便利で、

連絡とるのにも、どこか行くのにも大変で

車の交通量少なかったから

って聞くと、

 

今の時代はいつでも繋がれる分、

いつでも切れる。

それだけ時間をかけて関係を築けるなら、

その関係は本物だ。

と思えばそれはそれで素敵だし、楽しい。

 

と、こんな話をしてるといつの間にやら時間が過ぎて、

早く帰れるんに時間が勿体ないと言われたのに対しては

“自分にとって有意義な時間を過ごしたなら、

その為に使った時間は1秒たりとも勿体なくはないのだ。”

 

楽しいなーこういう会話。

 

話してたら、悟った様な言い方するなと言われたが、

たくさんの人の良いところ悪いところ、

自分の良かったとこ、悪かったとこ、

それに気づけるかどうかだと思う。

 

気づけたら賢者への1歩。

気づけなかったら愚者への1歩。

気づかない事に気付けたら、

愚者から賢者への1歩。

 

だから人を見て、自分を見る。

そして誰かの思考...(哲学を)知ろうとしたら

きっと何かに気付ける。

 

書留。独り言。

楽しい時間はあっという間に。

忘れるな。いつか死ぬ事を

 

戯言

人間は社会的動物ではあるが、

仕事上では利用するかされるかだ。

そこに他意はない

 

人を殺すか、自分を殺すかだ。

肉体的ではなく、精神的に。

 

死ねないから生きる。

ならば殺せばいいという訳でもない。

 

いくら首をはねたとて、変わらぬものは変わらない。

気付ける者はひと握り。

 

行動する者はひと握り。

 

ひと握りが集まる社会は...

やはり今と同じような社会になると思う。

 

それが人間だから。

ノミ

ノミは体内が不完全なまま生まれて、

脱皮する度に少しずつ増えていくとか何とか

 

ってこの前読んだ本に書いてあったけど、

またちゃんと読み直してみよう。

 

伊藤計劃さんの“harmony”の中に

継ぎ接ぎの進化というフレーズがあった。

それもこれと類似してる部分があるかもしれない。

 

楽しみだ。

 

世界の収束

集束?どっちだっけ。どっちでもいいか

 

いつも僕達が繰り返してる事。

 

選択し、もう片方または

多数の中で選んだ選択の中で選んだ結果。

 

可能性を生かし、殺すこと。

もし、選択肢の中で多数の自分が現れ、

最も良い結果だけを知らせてくれる装置があるとしたら?

 

人は堕落していくだろうが

その中で継ぎ接ぎの進化を得る者が現れるだろうか?

 

リスクを取るか、

それとも、確実な成功だけを選ぶのか。

 

例として

多少のリスクを負ってまで選択したAは

自分に対して多少なりとも得るものがある。

 

何のリスクもなくと言ったらおかしいが、

リスクなくして選択したB。

得るものがあるが、失うものが無きにしも非ず。

 

リスクは大きいが、

得るものが大きいC

 

リスクしかないが、

逆転の可能性が少しだけあるD。

人によっては、かなりのものを得るが

それは一時にしか過ぎず得るものよりも失うももの方が大きい。

 

どれを選択するか人それぞれだが、

博打をやっている感じが否めないものもある。

 

みんながみんな正しい選択をしたら、

正しくない選択が必ず出てくる。

 

正しくない選択だけを消していっても、

結局は同じになるかもしれない。

 

自分にとって、正義でも他者にとっは悪でしかない。

 

そう、

壁のどちら側にいるかという話と同じ。

内側か外側。

 

不思議の国のアリス

ハンプティ・ダンプティ”の様に塀の上に座ってれば

どちらでもあって、どちらでもない。

選択をする前なのか、

選択を放棄した状態になる。

 

逆に最も悪い結果になる事だけを知らせる装置があれば、

ひとは間違いを犯すことが無くなるのだろうか?

 

それもまた違うだろうが...

痛みの無い恐怖

痛みがなく、恐怖だけが勝る。

 

 

例えばの話。

                    

足が壊死して、感覚がない。

そして、そこを切り落とさねばならない状態になった時、

普通なら病院へ行き手術され、

適切な処理の元、治療されるべき話。

 

だかもし、何らかの形で

病院へ行けず、

医療行為が受けられなければ

壊死した足が朽ちるのを待つか、

誰かにもしくは、自ら切除しなければならない。

 

その時に、

壊死した部分は痛みを感じないだろうが...

意識は、脳は、感覚は

痛みを感じるのだろうか?

 

もし、痛みを感じるならば、

その痛みは恐怖から来る痛みなのか、

 

壊死してないもう片方の足から来る

擬似的な痛みなのか、

 

壊死した足の...無いはずの痛みなのか。

 

どうなんだろうか?

例えで足と称したが、腕、指でもありえなく無い。

 

昔読んだ携帯小説の...

“おまじない”だったかな? 

主人公が呪いをかけるその過程で

自分の指を代償にたくさんの人を殺す。

 

呪いをかけた指は腐り、

腐敗が進むにつれ、指の感覚は無くなり、

最後にはその指が腐り落ちる。

 

そして、主人公はない指の代わりに割り箸で指を作り、包帯で偽装し、

恋人に会いに行くという部分が印象的な話を思い出した。

 

最後はどうなったんだったかな...。

 

随分前に読んだ話だから忘れてしまった。

 

本が増える一方で、

読む時間がなかなか取れないのは辛い。

 

もう一人自分が居ればと度々思う。

そうなって欲しいが、そうなって欲しくない。

そんな自分がいる。

継ぎ接ぎ

仕事をしながらこんな話になるのは初めてだったのだが、

食について。

 

多分、農家や、農業科の学校、

何らかの形で農業に携わってる人と

そうでない人の価値観の違いは一目瞭然なのだが...

 

 なんと言えばいいか、

見た目がグロいから触れない。

でも、調理済みなら食べられる。

なんて人が多いと思う。

 

それを調理する人も、処理する人も居るのに

いざそれを自分がやるとなった時に

“気持ち悪いです、できません”

“グロいので触りとうありません”

となると思う。

 

そんなもの慣れだという人も、

肉じゃなく、商品、もしくは……

仕事だと切り替えれる人ならば、

また違った見方をする。

 

そういった違いを理解してくれる人も少ないのが少々残念だなと思う今日この頃。

 

そして思った。

人間が共食いしないのに

ほかの動物は共食いをするのは

“共食いをしなくても生きていけるから。”

 

戦争で口減らしのために、、、

兵士が片方がもう助からない状態、

山小屋での遭難。

食料がない状態での人食。

 

やむ無くそうするしかなかった状態で

そこにある肉が食肉だろうが、

そうでなかろうが、

肉であることには変わりはなく、

食肉か、はたまた…ただの肉塊、

死体として見るか

そういう話ではないのだろうか?

 

そして、人は意識を持ち、知性を持ったただの肉塊と捉えるか、

意識を持ち、知性を兼ね備えた

継ぎ接ぎの進化を迎えた動物

と捉えるか