空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

脳 (未完)

人はいつから自分が自分であると確証し、

自分と決めるのだろうか?

 

なぜそれが自分だと言うのか。

 

それは誰かに作られた存在では無いのか?

 

そんな事を...普通の人と言ったらおかしいかもしれないが、

そんな事に疑問を持たない人にとっては

興味の範囲外で、

気に求めないだろうなと思う。

 

 

脳が自我を持ってるのではなく、

感覚の集合体が脳であり、記録媒体であるのだと私は考える。

 

 感覚を得ることで、感じることが出来る。

感じることが出来なければ

それを得ることはひどく難しいことになるだろう。

 

 例えば、冷たい。熱い。

細胞の集合体、肉塊の一部、

触れたものから神経へ電気信号に乗って脳に送られる。

脳は処理してそれを認識する。

 

ならば、細胞や、神経が自我を持ってもおかしくないのでは無いか?

と思うのだ。

 

集合体のコアが脳ならば、

違うな。大元が脳で、脳は何も感じない。

脳だけならば感じる事が出来ない。

という方が正しいだろう。

 

細胞や神経からの情報がなければ

感覚を得ることは出来ない。

 

脳だけあっても、肉体がなければ

空想や妄想でしかないのだ。

 

情報がなければ脳はただのデバイス...?

 

気づかない事に気付けたら...?

人間は社会的動物ではあるが、

仕事上では利用するかされるかだ。

そこに他意はない

 

人を殺すか、自分を殺すかだ。

肉体的ではなく、精神的に。

 

死ねないから生きる。

ならば殺せばいいという訳でもない。

 

いくら首をはねたとて、変わらぬものは変わらない。

気付ける者はひと握り。

 

突如として頭に浮かぶ言葉

もし、もしだ。

 

人間の脳がラジオや、

受信機のような役割を果たすとしたら?

 

たまに言葉が浮かんできたり、

何かを感じ取ったりする時があると思う。

 

そこでふと思った。

 

人の脳が受信機で、脳内電波、

もしくは電気信号、微弱な電気...電波?的なのを自分の脳内と合う波長というか、

ラジオの選局のような...

 

ある一定の数値だけ受け取れるとしたら?

 

もしかしたら、

人はテレパシーを覚えれたかもしれない。

 

こんなことを思うのは

コードウェイナー・スミスさんの

ノーストリリア”を読んでるからかな(笑)

得る。そしたら飛べる。

片方を得られなければ、

もう片方を知る事はないだろう。

 

両方を知れば、

どちらの良いところを取り入れる事が出来るはずだ。

 

自らが体験せずとも、

他者の歴史に学べることは多いはず。

 

読書は他者の作り出した文字列をなぞるだけ

という人もいると思う。

 

私はそれは違うと思う。

これはあくまで私の見解。

 

私は誰かの世界(思想)を読みたい。

誰かの描く

ディストピアであり、ユートピアを...

 

それがただの知識の集合体でも。

それを知る事で私は心が満たされる。

そこで自分がいつまででも飛べる、

飛ぼうとするならば、

きっとそれは自分が成長出来る証だから。

 

飛ぶために、空を見上げ、

手を伸ばすために、地を歩く。

 

いつだって飛べるんだ。

足枷は自分が付けてて、

それを生かすも殺すも自分次第。

飛べるんだ。だから死ねない。

まだ死ねない。読みたい。誰かの世界。

時間が足りない。

たくさんの本が、知識が、世界が

どこまでも飛べる翼になるから。

戯言。

他人が他人の何を語ってるんだ。

 

そいつ自身、自分を分かってないのに

他人が語れる事はただの見解の集合体でしかない。

そこから自分の認識と、存在構築が始まる。