時たま映画や小説の中で既視感というものを感じたりすることがあるだろう。
自分の好きな作品同士が似ていたり、
本質が近いものだったり、
本質は全くもって別物だが、
どことなく似ているもの。
たまに思うんだ。
この世界とあの世界を足した世界が出来たら、
結末はどうなるんだろうって。
もしかしたら気づく人が居るのかもしれない。
他者に観測されてる事、
観測されていない事。
もし、シュレディンガーの猫の様な話なら、
観測されなければ私達は存在しない。
1人では観測したとしても、
その本人が認識や、意識、意思を……?
もしくは?
いや、私という個体を認識するのは私だが、
確認する術を持たないのだとしたら?
私という1個人や、個体、性質や、意識、
意思を確立するすべを持たないのだとしたら?
そこにあるだけの存在であったとしたら?
私というものを認識しても、確立が出来なければその存在は1と0の間の存在なんじゃないかと。
まぁ、そんな与太話さ。
考えてる時は楽しい。
それに集中出来るし、邪魔もされない。
著 伊藤計劃さんの harmony
御冷ミァハの言葉を借りるなら、
“誰かが孤独になりたいとしたら、
死んだ(デッド)メディアに頼るのがいちばんなの。
メディアと、わたしと、ふたりっきり”
私という存在と、その思考。
それを書き写すためのメモ。
1対1の関係。他の誰にも邪魔されない。
邪魔させない。