空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

観測と、メモ

本来の意味を無視して、

覚えた言葉を使いたいから使っている。

 

それが誰かに反響...?して

揺れる水面のように広がっていく...?

 

表面上、表層に居るものにとっては何らかの影響ではないが、

観測や反応に当たる。

それが自分に響かなくても。

 

水面ではなく、水のそこに向かっていくにつれて表層の影響は見えないが、

原因は目視、もしくは体験できる。ということ?

戯言

思いつく限りのリスクを書き出したら、

メリットが見えてくるだろうか?

逆にメリットを書き出した時に、デメリットは本当にリスクになり得るのか。

 

視点を変えるだけで、本来持つそれを分解し、分類し、本質を見極めるのだ。

 

何故?という言葉を忘れたままで

先へはすすめない

劇について

 

道化を見て笑ってるのか、道化に見られて笑っているのか。

 

果たして人というものは、演者か道化か、

はたまたただの思考ある肉塊か。

自省録 著マルクス・アウレリウス 訳神谷美恵子 より

第8巻 五三

 

一時間のうちに三度も自分自身を呪うような人間に君は賞められたいのか。

自分自身にも気に入らないような人間に気に入られたいのか。

自分のやったことのほとんど全部を後悔するような人間が、

自分自身に気にいっているといえようか。

 

-自省録-より

 

自分自身さえ気に入らないのに、

他者に気に入られることがあろうか?

自分に嘘をついて、不誠実でいるな。

 

といったところだろうか?

51~52まで続けて読んだ後に読むと、

 

最初に読んだ時、

何故か読み間違えたのか、

仮に自分の傍に他者を批判し、呪うような人間が居るとする。

 

その人はいつも何かを批判し、否定し、

気に入らないとボヤく。

そんな人が私も、その人自身も気に入らないその人自身に気に入られたいのか?

嫌ってるのか、興味が無いのか分からないのに、

否定ばかりする心に、言葉に、

そんな人に気に入られる必要があるだろうか?

 

と何故か他者目線で受け取ってしまった。

確かに文を読むこと、

本を読むことは1度外に出た言葉だし、

誰かの言葉なのだが、

アウレリウスの日記のような自省録を読むと

自身に言っているつもりでもあり、

他者目線になってしまう事もある。

 

だから、時たま混在するのだ。

分離と、乖離と、融合を繰り返して……

 

 

 

 

 

 

戯言

自省録を読んでからというもの、

書かれてあることをやってみると不思議な事に色んなことが見えてくる。

 

だが、それと同時に大衆(多数の一般常識とされる価値観)との自分の価値観の違いが深くなるのを感じる。

 

大衆である事が是と言っている訳では無いが、

善いとされることが本当に?と考えると思考が止まらない事が少し困ることといえば困ることだ。

 

何故知識を溜め込むのか。

そして、溜め込んだ知識をどう残すのか。