愛されたいから愛す。
→欲しいから、満たされない。
コップの水が溢れてるのに気づかない。
注がれているだけの側だから。コップの容量を認知できていない。
愛したいから愛す。
→与えたいから、満たされる。
コップの水を自分で満たし、あまつさえ、他者にも分け与えることが出来る。
時間が無く走り書きしたが、
前者は
与えられる事が当たり前という節があると思う。
与えられる事が当たり前というのイメージを
1番しやすいのが赤子なのだ。
泣けば母や、父、誰かが世話をしてくれる。
与えられる事が当たり前だが、
赤子は自分で自分をどうにか出来る状態ではないという事。
この前提条件を忘れてはいけない。
自分でどうにか出来るなら、
泣かなくても自分で何とかすればいいのだから。
後者は
見返りを求めることがない。
与えたいのだ。
ただ、自分の持つ全てを与える事で心が満たされる。
互いに成長し合う為に、導く事に意味がある。
と考えている節がある。
のではないだろうか?
と思う。
私の個人的見解だから、
違う!と思う人も居るだろうな。
後者はよく語れるのだが、
前者を語るのは難しい。
客観視出来てないのか…
自分の思考に引っ張られてるのか。
語る時は客観視してかつ、
中立にならなければいけないんだろうか?
自分(客観視)と、問題に対しての意見AとB
自分の中で3人にならなければいけない。
なかなか大変だが理解したいならそれをやるのも一つの手だろう