母を嘆かせたのは、私が意思力を欠いていることでした。
何かするのは、いつもその時々の衝動に突き動かされたからでした。
その衝動がいつも精神あるいは心情によって与えられる限り、私の生は、完全に善いとはいえないまでも、
本当に悪いものでもありませんでした。
私たち、母と娘の心を何よりもまず占めていたのは、
勉強や平静や分別について私が立てた立派な計画を再現することでした。
というのも私たちはー母はより明確に、私より漠然と、とはいえ非常に強くーこう感じていたからです。
つまりその実現は、母が宿し育んだあの意思力の、私自身による、私の中での創造を、私の生に投影したイメージにほかならない、と。
楽しみと日々
著 プルースト 訳 岩崎 力
P173 より引用
ここまで読んで、思いついたのが
フロムの「愛するということ」 という作品の
母の愛と、父の愛について読んだ時のこと。
言葉にするには難しいのだが、どこか…繋がった。という感じがした。ということ
なんというか、自分の中に、父性と母性の両立させるということ。と言えばいいのか、
愛についての技術の1片を感じた?
どう言えばいいのか。
関係ない作品同士ではあるが、そこから学ぶものはそこにある。
ほかの知識がその手助けをしてくれる時があるということ。
小説の中での彼女の心情を語る言葉と、
学術的に語られる言葉と、
言い方は違えど本質がそこにある?
言葉に対する意味のような関係で。