空想思考

メモ書き。考察、見解。その他

BUMP OF CHICKEN パレード より

心臓の中に誰か居たら“面白いな”

と、ふと思った。

 

Home starつけながら

BUMP OF CHICKENの“パレード”聴いていた。

歌詞のなかに

“呼吸はどうか 普通かどうか 手を当てた胸に”

の部分で、胸に手を当ててみた。

 

心臓の動きを指先で感じる為に

 

-はなさないで はなさないで-

“誰かそこに居るの”

↑この部分から

 

自分の心臓の中に誰か居たら

面白いなと感じた。

 

もしも、心臓に扉でもあって、

“パカっ”と、もしくは、“ガチャッ”と

扉から誰かが出て来たら...

 

NHKでやってた“サブリナ”というドラマのように。

魔女が恋におちたら云々の話だったと思う。

胸に扉あって、そこを開いて、

そこから心臓が見えるというシーンが

記憶に強く残っている。

 

もし、パカっと開いて

心臓から誰かが

“ Hello”なんて言って出てきたら...

 

驚きと困惑で笑ってしまうだろうな。

 

それとも、メン・イン・ブラックみたいに、

見た目は人間、身体はロボット、

脳内には小さな宇宙人が居て、

そこで操作してるなんて感じだろうか?

 

それもそれで笑ってしまうだろうな。

 

自分のものだと思っていたものが、

実は誰かに操られていただけだなんて

考えただけで可笑しくなる。

 

いや、これはこれで

自明で選択された何かとも捉えられる。

 

他者の存在を知らなければ“操られている”

なんて認識すら出来ないのだから、

洗脳か、誘導か、

はたまた無意識かは別として。

 

脳内報酬と脳内欲求

お互いに結びついてるのなら...

 

脳が感情を制御しているという事を

知る前なら...

 

心がどこにあって、心が頭ではなく、

心臓の部分にある頭とは別物。

という認識の中で

例えば、誰かに無意識として操られていたら

それを自明と勘違いしても

おかしくはないのではないだろうか?

 

 

自明と選択。

もし、人間をいや、

前提がおかしいかもしれないのだが

 

AI...いや、人間?

 

自明で選ばれた選択をする人間は

人間ではなく、ロボットやAIに近い存在じゃないだろうか?

 

そもそも、人間とは?

 

この存在は何?

 

この肉体は何?

 

この思考は?

 

 

誰のもの?

 

 

私はどうやって私という存在を

位置付けることが出来るのだろうか?

 

いつか死ぬ事を忘れるな。

 

いつか消えてしまうことを忘れるな。

 

明日自らの命が消えてもおかしくない事を

忘れるな。

 

忘れる事を忘れるな。

 

自明で選ばれた選択を、

恍惚と呼べるのだろうか?

 

選択しない事を、選択してもらう事を

良しとするのはそこに責任が無いから。

 

なら、

私という存在は要らない?

何故人はこんなにまでも感情に左右されてしまうのか。

 

自分でもあり、他者の感情に振り回される。

 

自明で選択されたものならば

感情に流されず、

感情に押し殺されることもなく、

自分が本当に必要なものを手に入れることが出来るのだろうか?

 

だが、自明であり、なんであり、

理性が…

いや、自明で決められただけで

理性や本能は消えない?

 

分らないな…

どうなんだろうか?

感情の重さについて

重いという感情の中には、

重さが存在する。なのに、その重量は厳密には測れない。

 

測ろうにも数学的概念は通用しない。

 

しかも本人もしくは、

他者の受取り方ですべてが決まってしまう。

 

相手には重いと思われてなくても、

自分の感情に押しつぶされてしまう。

 

この差は何だろうか?

 

自分の中で重く重く重圧の様になって行くというのに

他者にとっては難なく解決してしまうような感情問題が

その差が、重さが、分からなくなる。

 

何故そんなに感情が重く感じるのか、

そんなに不安になるのか。

 

他者からの連絡がこなくなったがために

自分の命が危うくなった訳でもないのに、

その不安はどこから来るのだろうか?

 

死ぬわけでもない状態で、

そんなに不安になり、

感情がざわつくのは何故なのだろうか?

 

最初に感情に重さという表現をした人は

そんなことを思ったのだろうか?

 

重さという概念は、

重量だけじゃなく、そのほかのものも含めて

人が考えてるものは何だろうか?

 

理解できるだろうか?

見解しかできないであろうが、

それが私の答えになれば、この不安は、

この重さは、消えるだろうか?

他力本願な答え合わせ

他力本願な癖に、変化がないことを相手に求める時点で

何様?

そして、マンネリ化してつまらない

なんて、そんなに常に変化し続けなければ死んでしまうのか?

 

親や恋人に対してならなおさらだ。

変化がほしいなら、自分が変化を取り入れるべきだ。

そして自分が変化しつつ、相手と共に変化すべきなのではないか?

 

いや、自分だけにしか出来ない変化を相手に求めるのがおかしい。

相手に期待しすぎているのが問題だ。

 

やってもらう事が当たり前すぎて、本当にそれは

“あなたのためになるのか?”

ということだ。

 

きっかけは必要だ。

それは突然の思い付きのようなものだろう。

そして、その思い付きを実行するか否かで

自分と相手との関係性を生かし、殺すことさえ出来る。

 

こんなごく当たり前なことなのに、

いつしか自分がそうなってしまってることに気づけなくなってしまうことが怖い。

 

気をつけよう。でも、もしそうなった時に

自分はどう...動くことの出来るのだろうか?

 

他力本願になりすぎやしないだろうか?

それとも、自分で何でも出来るようにしようとするがために

相手を傷つけているのではないだろうか?

 

頼りすぎても、頼られすぎても、

自分を殺すことには違いないのだから。

 

自分がどうしたいのか見極めるべきだろう。

 

そのすべを今の自分は知ってるだろうか?

 

いつか気づくだろうか?

 

当たり前になっていないだろうか?

 

この疑問は自分に届いているだろうか?

 

答えを探すことにかまけて、自分を見失ってはないだろうか?

 

自分というものをどこかに置いてきたのではないかと心配になる。

相手を気にしすぎるのも、自分という存在をけなしすぎるのも

きっとどこかに答えを置いて来てしまったのだろう。

 

今の自分では答えが出ない。

過去の自分なら答えを出せただろうか?

未来の自分は答えを見つけられただろうか?

 

いつかこの答えを書けるといいな。

この人を見よ 著 ニーチェ

この人を見よ

を読んでる最中に、

“病気が私を初めて理性へと導いてくれたのである。”

という一説がある。

 

これを読んだ時、

人は病気になれば理性的になるのかと思った。

病気といっても、

軽いものから重いものまである。

 

軽いものでは気付かぬだろうし、

重いものでは、要らぬところに気を使って、

本質を見抜けなくなるかもしれない。

 

だが、

理性的である事には変わらないだろうと思う。

終わりが近づくから、気付き、

冷静に思えるものがひとつ、ふたつ、と

出てくるのかもしれない。

 

まだ分からない。

伊藤計劃さんのようになれば、

分かるかもしれない。

ニーチェの様に考えられれば

分かるかもしれない。

 

気付かないものに気づけたら

分かるかもしれない。

 

全ては可能性だ。

 

何一つ現実味のない、過程。想定、

頭の中で論じられ、並び変えられ、

忘れ去られる存在。

 

こうやって書き留めておかなければ、

私の思考は、淀みに浮ぶ泡沫となり、

泡となって消えるのだ。

 

飛ばしたシャボン玉が弾けて消える様に...

人魚姫が泡となって消える様に

 

なにも残らない。

 

あるのは私の頭の中にだけ。

それさえ忘れてしまう。

 

だから忘れたらいけない。

書くことを。書き留めることを