私を殺すのは私でしかない。
(地獄はここに、頭の中にある。
“虐殺器官”より)
だが、私を生かすのは他者だ。
死にたくない。
殺されたくない。
私という存在を消さ(殺さ)ないで。
今の私の世界が終わらない限り、
私はあなたに会えないのです。
伊藤計劃さんの作品を思い出し
映画のPV等を見ていると、
ふと、そう思った。
終わらない限り、存在し続ける。
生きている限り、物語は終わらない。
はたしてそうなのか?
ただ、自分という存在を
死と隣り合わせにする事で、存在意義を...
自らの存在を、今認識しているこの瞬間を
“本物だ”と
そう思いたいだけではないのか?
本当は死者は側にいて、
死者ですら無く、
その存在すら、物語の一部でしかないという事をどこかで否定したいだけではないのか!?
この考えでさえ、
誰かの空想で、想像で、インプットされた
設定かもしれない。
それを否定するための確たる証拠も無ければ、肯定する術もない。
死ぬも生きるも同じだ。
共に走り続け、共に消える。
(生まれたと同時にまとわりつく、光と影)
それが他者との“時間”という概念での
違いがあるだけなのだ。
いつか来るかもしれない。
誰かの世界を認識する日が...
紙や、電子、音や視覚情報ではなく、
本質を、本能とその存在を。
私が私であることを証明するのか、
私が他者との存在でお互いを認識し合っているのか、
はたまた、
この存在すら、誰かの物語(世界)なのかを...
ハーバード大学の心理学講義という本を手に取って読んでみた。
これは私の偏見であり、私の感性以外のなに何物でもない。
その中に 本当の自分はどれ?
って...本当もくそも、全部自分であって
状況によって変化するものじゃないのかと思う。
例えば、
人見知りであれば、最初はよそよそしい。
友達なら親しい感じだろう。
だが、その友にすら見せない顔がある。
人気のある人、はっちゃける人と言えば良いのか...
外向的な人は、
普段は色々と張り切っている。
ノリがいい。注目の的の様な存在かもしれない。
だがその半面、
孤独に飢えているかもしれない。
その時の状態によって違うだろうが、
本質は変わらないのじゃないだろうか?
変化する性格特性...?
たまねぎ か アボカド かという事にしても。
心の数値的なものを段階にすると、
一段階~?段階
どこまでを他人に?
知人に?
友人に?
家族に?
そして、自分に?
という事じゃないのかなと思いつつも、
まだ勉強が足りないな。
説明するのが下手なのは未だに変わらないな...