言い回しが回りくどい!
もどかしい…!考える力は身につくが、
とても、もどかしい…!
この答え端折って話したら1文で済むのに、
説明が先に来てるから余計もどかしく感じるのかもしれない。
逆に考えれば、
答えを知ってからより、
自分の考えを熟考できるから、良いのか。
考えた末の答え合わせは楽しいし、
違う観点を見い出せる。
その点では良いのか…
岩波の文体に慣れていると、
光文社の文体に慣れないから困る
他者とは違う観点てものを見ることが出来れば、
可能性は広がるし、どこまでも飛べる。
そこを決定付けるまでが、
自分の成長に大きく影響を与える訳で、
それを他者に理解して欲しいと思うのは傲慢だろうか…?
自身がそういう考えを持って対峙してるという事を知ってもらおうとする事は、
傲慢なのだろうか?
知りたいから知ろうとする。
その中で相違は出てくるけど、
どこまで自分の中で受け入れれる、
受け入れれないという気持ちを分けれるか、
それを客観視出来るか。
それが大事なのではないだろうか?と思う。
他者が自分の鏡であるならば、
善いという事は取り入れ、必要無いものに関しては取り入れず、
頭の片隅に置いておく。
それが大事なのではないだろうか…?
忘れてしまう事も、覚えきれない事もあるが…
節度をもって、自分が成長する為に努力する事は、
他者を導くきっかけになるのでは無いだろうか?
だが、それにあぐらをかいて座られても困る。
そんな時は手放すしかない。
気付くように、諭すしかない。
相手が鏡ならば、自分も鏡なのだから。
気付くきっかけはどちらにもある。
気付けるかは自分次第。
気付けるように努力するしかない。
気付け、問題に気付けたら、答えはすぐそこだ。