相手を理解するために、
行動と心理の本質を分けて理解する必要がある。
そうなりたくないから、
どうしてそう思ったのか、その心理の根底と、
その行動の結果によって得られるもの。
を分けて考え、予防線を張る。
(損得だけで考えてないか?
取捨選択は大事だが、どこまで線引きをするかが問題。)
知るには同じ土俵に立つ事が本当に必要なのだろうか?
真理をさぐって、こうのでは無いのか?
という選択肢を上げて、
近しい何かを見つける方が手っ取り早い。
だがそれは本質を理解した事にはならないのは事実。
(それは本人が経験して感じたことではないし、
本質の理解はどうしても出来ない。
感情や、行動に対する言語化はできるのに、
それが本当に正しいかの証明はできない。
言語に頼りすぎて、どう表現すればいいのか分からない。
言語が悪い訳では無い。
表現方法が言語化された方が理解が早いと言うだけ。)
どうあっても、その時、その場所でのその人の感情でしかないのだから。
そして、
時間と共にそれが自分のものではなく、
自分のものだったものに変わっていく。
(自分の思想でさえ、時が過ぎていく度に“だった”に変わる
紙や、なにかに入力した時点ですらもう、
それは私だったもの。
それを客観視してしまえば、
自分がどう思って、なぜそう感じたのか。
という事が気になって、感情が切り離される。
まるで、雪像だな。
作って、見て、感じて、春になれば溶けて消える。)
尊重が欠けてる。
→自分に対しても、他者に対しても。
一歩引いて考えることも、伝えることも大事。
→自分を客観視出来る。
余計な一言を言わなくて済む。
言葉を選びすぎて、伝えたいことが伝わらないこともある。
自分に対しても誠実でいられるのかどうかと問われると難しくなってしまう。
どうやって、自分が自分であると証明するのだろう?
こう書いていてもいつか消えてしまう。
読んだ誰かに少なからず影響を与えるだろうが、
はたして一度取り込まれた他者の思考を、自分の中で芽生えさせることが正しいのだろうか?
規律や理論、倫理観、論理を学んだりすることは大事だが…
…?
正しさとは?
何が必要なのか。
思想の中だけでは偏ってしまう。
自身を確立するには手っ取り早いが、
自らの影をどこまでも追いかけ続ける事になっているのではないだろうか?