対等であろうとしながら、受け取り下手になってしまうのは残念なことなのだろうか?
返せるかどうかの問題以前に、
自分の中の基準に一定ラインを超えてしまうからでは?
尊重の部分で、どこまでが大丈夫なのかどうかということをすり合わせできてない。
とか?
ヤマアラシのジレンマみたいな。
与えすぎても与えられすぎても困る。
知ることで、知を深める
=自分を知る。
他者を知る。(自分の中の他者との類似性)
配慮できるようになる。
知ろうとしなければ、対等にすらなれない。
格上であろうとなかろうと、
知る事によって、成長出来る環境が整う。
なら、成長する為に
自分の時間を与え、相手の時間を貰うことに対して、
何らかの対価を払いたい。
という思考はどこから?
奢る奢られる関係と、割り勘に関する問題はそこにありそうだが…
年齢、性別云々の問題を無視して話すが、
対等で居たい人物、友人等々に関しては
相手の時間を貰っているし、
自分も渡しているのだから、それに対しての対価は払わせて欲しい。
時間と、対話中の中でたくさんのものをもらっているのだから (心が満たされるという意味で)
食事代等は折半でいいと思う。
お金でどうにかできないもの(生きている時間)を貰っているのだから。
『与えたものと共にした時間 与えることで息づく生命』
フロム 愛するということ より
巡り巡ってここに落ち着いた?
ということは、人生の中で自問自答してやってきたことは先人たちはもう答えを出していた?
でもそれを理解するための解説は自分で導き出さねばならず。
公式はあれど、それを解くための数式は自分で見つけ出さなければ気づけない。
ということ?
結局自分が納得出来なければ、公式も数式も意味をなさない?