問題に対する多角的な見解が必要な時、
まずは第三者に推理させることだ。
その中で“誰が”や、“どうやって”というより、
何故?ということに目を向けるという事が
別の角度で問題を解く鍵になるのではないか。
ということを、
の1章の最後の一文から思った。
「一番のポイントはね、何のためにそんな密室を作ったかだ。HowよりもWhyだ」
行動理念を考えれば、心理的面も見えてくるだろう。
ということは考えつくが、それに共感や、道場に似た何かを感じれるかは別物だ。
理解した化け物になるのか。
理解と見解の先の、近い何かを手に入れられるか。
この言い方だと語弊がある気がするが、
どうあっても理解されることも、
理解することも出来ないのだ。
状況を見聞きして、想像した何かを理解と呼ぶのだ。
見解のすり合わせをしようが何をしようが、
結局は重みが違うのだから仕方ない。
読む度に考えさせられる。
読む所々で何かを得られるような、えようと模索できる本は楽しい。
ただ、思考や、書留するために読むスピードは遅くなる。
こういう時二重思考と同時処理出来れば
色んなことが同時にできて効率的だが、、、
その情報が統合された時の障害というか、負荷が計り知れないな、、、
外部サポート機器を付けたら、
人間でいられなくなるのだろうな…
我もまたアルカディアにあり、
Wシリーズ、PSYCHO-PASSのような、SFの世界だな。
前にも似たような話を書いた気がしなくもないな…
思考の根底に近いものが固まっている。
決まっているから、それに近いものを構成する。
なら、それに気づいてその答えから別の見方をしようとすればいい。
あえて反対の意見を受け入れて思考してみる。
そのメリットデメリットを提示。
そこからまた派生していけば
思考は自由の海を泳ぎ、どこまでも飛べる。
飛ぶための思考。
そうすればどこまでも自由だ、。